戸出地域の地名の由来について

昔、戸出(といで)は「灯油田」と書かれていました。

ここでの「灯油」とは、今でいう原油を蒸留して製造される灯油ではなく、
明かりを取るために使う灯(ともしび)のための油です。
灯油を作るための菜種(菜の花)が多く栽培されていたため、
この地が「灯油田」と呼ばれるようになったのではないかと考えられています。

しかし、菜種油の生産が全国に広まったのは江戸時代となってからです。
ですので「灯油田」で生産されていたのは菜種油ではなく、
それ以前の灯油の主流であった荏胡麻油が生産されていたからでは?
ともいわれています。

また、延喜式(平安時代に作られた律令の施行細則)には、
越中国(富山県)から年貢として胡麻油が宮中に納められていた
ことが書かれています。もしかすると戸出では
平安時代から灯油が生産されていたのかもしれません。

いずれにしろ、戸出で採れた灯油は昔の人々の生活を明るく照らし出し、
豊かな文化を支えていたと考えられます。


以下、戸出地域の地名の由来を
戸出地区、北般若地区、是戸地区、醍醐地区別に記します。

旧「戸出町」地区の地名
旧「北般若村」地区の地名
旧「是戸村」地区の地名
旧「醍醐村」地区 の地名
戸出市街の町名について
戸出地域内の新しい地名


旧「戸出町」地区

戸出

 川合又右衛門が開墾する以前、この地の村は「灯油田」と書いて「といで」と呼ばれていました。
 元和3年(1617年)、川合又右衛門が加賀藩から戸出野を開墾することを許され、元々あった古村の灯油田(戸出)村の隣に、又右衛門が拓いた新村の戸出村が誕生しました。

古戸出

 戸出村が又右衛門の努力で発展するようになり、古村と新村を区別するために古村の戸出村を「古戸出村」と呼ぶようになったと考えられています。
 いつ頃から「灯油田村」が「古戸出村」となったのかは不明ですが、古戸出村が昔「灯油田村」と呼ばれていたことは間違いないようです。

中之宮

 「中之宮」は古くは「中ノ宮」記されていました。
 千代村の上ノ宮、油屋村の下ノ宮に対して「中ノ宮」と呼んだとか、伊勢領明神宮と光明寺の毘沙門社との中間にあったから「中ノ宮」と呼んだなどといわれています。



 昔は「大かめ村」と呼ばれおり、昔「大亀」が棲息していたのでこの名がついたといわれています。
 また、この近辺に狼が出没して人を襲ったという記録が残っており、この地にあった小さな丘に狼が棲んでいてたのでは、いう説もあります。また一説には、狼は「大瓶」で大きな「淵」を意味し、この地が昔、千保川が大きな淵となって流れていたからだともいわれています。

市野瀬

 昔、庄川がこの地を流れていた頃、一番の瀬(川の流れの速い所)があったからだといわれています。
 昔は「一ノ瀬」と記されていましたが、いつの頃か「市野瀬」と変化しました。
 この地の開墾者は栴檀山村(井栗谷村)からやってきた山屋という人だといわれていますが詳細は不詳です。

市野瀬新

 市野瀬新村は貞享2年(1685年)、戸出村の百姓七兵衛他19名によって市野瀬村の領内を開墾された村です。
 この地を開墾した百姓らの希望によって「市野瀬新村」と称するようになりました。

伊勢領

 伊勢領は、伊勢の皇大神宮の御厨(荘園)として藤原時代から全国に存在していたものの一つといわれています。
 天正15年(1587年)の資料によると「伊勢之村」と記されていることから、遠い昔は「伊勢之村」と呼ばれていたようです。
 小伊勢領村は伊勢領村から分かれてできた村です。

 昭和26年、伊勢領地区は小勢村から戸出町へ編入しました。小勢村の「小勢」は、この地域の大きな2つの旧村名「小竹」「伊勢領」の2つを合成して作られた地名です。

 伊勢領が小勢村から抜けた後も「小勢」という地名は残りました。現在も高岡市には小勢地区と呼ばれる地区がありますが、伊勢領は小勢地区には含まれません。

旧「北般若村」地区

北般若

 この地は古来より般若郷の範囲であり明治22年4月町村制実施の際、郷庄の名前を村名に取り入れ、般若郷の北部に位置するので「北般若村」と呼ぶようになりました。

西保三ケ(西部金屋)

 1645年以前には「西保三ケ村」と呼ばれていましたが、いつの頃からか「西部金屋村」となりました。
 中世鎌倉時代には既にこの地に「保(=集落)」が存在していたと考えられています。
 その後何度かの庄川の洪水により保が東西に分断され、東側を「東保七ケ」、西側を「西保三ケ」と称したといわれています。(「東保七ケ」は現在は砺波市東保となっています。)
 その後、西保三ケ村は「ボ」の音が「ブ」に訛り「西部三ケ」と呼ばれ、鋳物師が住むようになった後「西部釜屋」「西保釜屋」と呼ばれました。そして「釜屋」は「金屋」に変わり、西部金屋と呼ばれるようになったといわれています。
 室町時代中期には既に西部金屋一帯は鋳物師の居住地として相当に栄えていたそうです。

西保新

 承応4年(1655)3月16日、西部金屋村の鋳物師少右衛門・藤兵衛ら10名が新しい村を興し、西保新村と称しました。
 この村は当時、稲作を行わなない無高の村でした。

落合

 庄川と堂川(大井川)が落ち合った地なのでこの名がついたとされています。いつの頃かは不明ですが、鋳物師か武士が落ちてきて原野を開拓してつくられた村だといわれています。
 庄川の洪水、及び庄川の改修により村の大部分は川床となってしまいました。

石代

 地名の由来は不明です。

石代新

 万治3年(1660年)、石代村の出村(新田開発や出作などによって本村から離れた所にある村)としてつくられた村です。
 「石代新村」と呼ばれていましたが、延宝5年(1677年)の洪水で村はなくなりました。

吉住

 古くは「吉積」と記されていました。
 慶長末年頃の越中古地図には「吉泉」と記されています。
 南北朝時代の文献にも既に吉積(吉住)村が存在したと記されています。
 西部金屋から吉住にかけての土地は南北に続く小高い丘陵地帯であり、庄川洪水の心配がない地であったから古くから村が存在していたと考えられます。
 元和5年(1619年)の川合文書によると戸数18軒で戸出地区で最も戸数の多い村だったようです。

吉住新

 寛文6年(1666年)、吉住村内の土地を新たに開墾。寛文7年に「吉住新村」と称するようになりました。
 吉住村の与四兵衛が吉住新村をつくったといわれています。

吉住又新

 貞享2年(1685年)、吉住村内の土地が新たに開墾され、元禄元年(1688年)に「吉住又新村」と称するようになりました。
 当時は農地だけで人が住まない無家村でした。

大清水

 昔からこの地には大きな清水が湧き出ていたので村名を「大清水村」としたそうです。
 大清水村は吉住村の枝郷(分かれて新しく開発した村)で、吉住村の九右兵衛が拓いたといわれています。
 大清水村を東西に伸びる道は古くは北陸街道の本街道とされ、東に庄川、西に千保川が流れ、ところどころに清水が湧き出るこの地は地勢上・交通上の要所でもありました。
 そのため、前田藩は元和、寛永の藩政初期には利波(砺波)郡奉行がこの地に置かれ、砺波地方の中心としての役割も果たしていました。

春日

 春日村は昔は春日吉江村と呼ばれ、以下のような伝承が残っています。

 平安前期の貞観10年(868年)秋、大和国奈良の武士吉江定明という者が法衣をまとい大鹿1頭を伴って全国巡歴中、この地で鹿が死んだので供養した。するとある夜白髪の老人が枕元に現れて「汝供いし鹿の名残のためにこの地に一村を構え...」とのお告げがあったので、この武士は草庵を構え、開拓をはじめ、祠に春日明神を祀って村名を「大和野吉江村」とした。その後農家が増え、弘安年間(1278〜1287)の頃に「春日」と「吉江」の名をとって「春日吉江村」と改称した。

 明治22年(1889年)町村制実施の頃までには「春日吉江村」と呼ばれてきた村名はいつのまにか「春日村」と呼ばれるようになっていきました。

春日吉江新

 この村は明暦元年(1655年)できた村ですが、しばらくして春日吉江村に吸収され村名はなくなりました。

増仁

 村名の由来は不詳です。元禄、享保年間の度重なる洪水で、99.8%が川崩れにあい小村となりました。
 現在は中田橋西詰に残った小さな祠だけが静かに増仁村の余影を残しています。

徳市

 村名の由来は不詳です。

旧「是戸村」地区

是戸

 昔、千代、新又新(以上現砺波市)、六十歩、放寺、放寺新、竹北新の7カ村は是戸郷、行兼、岡御所の2カ村は正戸郷、竹、光明寺村などは庄下郷にそれぞれ属していました。明治22年4月の町村制実施の際、この地区で一番大きい是戸郷の名をとって「是戸村」と名付けて発足しました。

光明寺

 光明寺村の名称については、遠い昔、光明寺という寺院がこの地にあったからだと伝えられていますがはっきりとは判っていません。
 勧成院、十王堂、光明寺、大門、矢口、井町、見道など、寺に関係するような地名が多くの小字として残っていたことから考えると、光明寺という寺は相当大きなものだったのかもしれません。



 今の竹村神社の地域あたりに「竹村十郎義家」という豪族が住むようになり、付近を開墾し百姓を支配していたと伝えられています。願性寺の記録によると、平安中期の正暦3年(992年)10月、この地を訪れた僧「寛海」が、竹村一族の帰依を受けて願性寺を建立したと記されています。
 豪族「竹村十郎義家」の竹村姓から「竹村」と称したと伝えられています。

岡御所

 いつの時代かは不詳ですが、この村に御所(公卿の住居)がありました。そのあたり作られた村だということで「岡之御所」と呼ぶようになったと伝えられています。

行兼

 遠い昔、本街道が千保川と交差しており川が氾濫した際、川を渡ることができず、「行きかねた」からという伝承があります。また、氾濫後の跡地の開拓に苦労が絶えず、よそからこの地に住むのに「行きかねた(行くかどうかを迷った)」からだという伝承もあります。
 慶長末年頃の古地図には「行子」という当て字が使われており、元和5年(1619年)の文書には「行金」という当て字が使われていました。

六十歩

 ここには昔、六地蔵堂(檀陀(だんだ)、宝珠、宝印、持地、除蓋障、日光の6地蔵を祀った建物)がありました。その堂の跡地に住居ができたので「六地蔵堂村」と呼ばれていましたが、いつの頃からか「六十歩村」となったそうです。

放寺

 遠い昔、「法寺」と称する真言宗の寺院がありました。その寺屋敷付近にできた村なので「法寺村」と呼ばれていましたが、寛永の頃(1624年〜)から「放寺村」と変わったといわれています。
 また、願性寺の過去帳によると、鎌倉時代中期の宝治年間(1247年,1248年)にできた村だからこの名前となったとされています。

放寺新

 貞享2年(1685年)、放寺村の百姓が竹村の新又川の分流跡地を開墾してつくった村です。
 親村の放寺の名をとって「放寺新村」としました。

竹北新

 貞享2年(1685年)、竹村の百姓が北高木村の新又川の分流跡地を開墾してつくった村です。
 親村の名の「竹」と北高木村の「北」をとって「竹北新村」としました。
 放寺新村と同時に開墾してつくられた村です。

延島

 この地は西川原嶋村の飛び地にできた村です。
 享保9年(1724年)の記録によると「野兵衛嶋村」との記述があり、この飛び地を開墾した「野兵衛」の人名をとって「野兵衛嶋村」となり、その後「延島村」と文字が変わったのではないかと考えられています。

旧「醍醐村」地区

醍醐

 明治22年の町村制実施の際、乳牛の飼育地であったこの地を、牛乳の味のことを「醍醐味」ということにあやかって、須田村長念寺の南木恵雄住職が「醍醐村」という名称を選んだという説が有力とされています。
 その他、素戔鳴神社境内に延元年間(後醍醐天皇の御代)に能登国より移植された「延元杉」と呼ばれる巨杉からとったという説もあります。
 また、太閤秀吉が観桜の宴を催した「醍醐の里」から来たある山伏が油屋に住みつき、故郷の八幡社を鎮座したからいう説などがあります。

横越

 古くこの地は庄川の分流である新又川が流れていました。横越の名は、この川を舟で漕いで渡ったからだとか、宮の横にあった川を横方向に越したからだという説があります。
 また、横越は昔「おうこし」と読まれ、「おうこし」は「王越」に通じるから、順徳天皇が佐渡へ流された際に御輿で川を横切られたからという説などもあります。

横越新

 貞享2年(1685年)、横越村内の新又川の川跡を新たに開墾し、親村の横越村から離れて「横越新村」となりました。

油屋

 詳細は不詳ですが、菜種(菜の花)を多く栽培され多くの油臼元(油を作る商売)や油屋が数多く存在していたのではないかとされています。

羽村

 明治12年4月、羽村は油屋村と合併した村です。
 羽村の名称の由来は不詳です。

須田

 山伏の守護神、気比神社の鈴などの保管用の蔵があったので「鈴田」と呼ばれ、その後、「鈴田」が「須田」に変わったのでは、とされています。
 その他、守山村(現高岡市守山)の須田から宗九郎、宗右衛門、長九郎の3人がこの地を開墾し村をつくったので「須田村」としたのでは、などの説もあります。
 慶長末年頃の越中古地図には「次田村」と記されていました。

後正寺

 昔、羽村に七堂伽藍の長善寺という寺があり、この寺の後ろ(西)につくられた村なので「後正寺」と称したといわれています。
 また、寺の後ろに清水が湧き出る池があって「後清水(ごしょうず)」が訛って「後正寺」となったのでは、ともいわれています。
 慶長末年頃の越中古地図には「牛照寺村」と記されていました。

夏住

 昔この地が新又川の氾濫原でした。川の水が少ない夏の季節に、この地に居住して開墾された村という意味で「夏住村」と称したといわれています。
 この地を開墾して住みついた人たちは、石代村、常国村、狼村、そして大田村方面からやってきたといわれています。

六ケ新

 貞享2年(1685年)2月、下老子村、一歩二歩村、須田村、小伊勢領村、矢部村、夏住村の6つの村の野方(高台など耕作にあまり適さなかったところ)を開墾してつくられた村なのでこの名がつきました。

戸出市街の町名について

東町

 町並みの東部に位置することからこの名がつけられました。

秋葉町

 古くは「東横町」と呼ばれていました。大火災があった後の昭和27年、「秋葉大権現観」を勧請(神仏の分身を祀って災いを追い払うこと)した際に「秋葉町」と町名が変更されました。

御蔵町

 加賀藩の御蔵(年貢米を貯蔵するための蔵)が傍にあるためにこの名がつけられました。

巴町

 古くは中町の東部に位置することから「東中町」と呼ばれていました。「巴町」の名は、木曽義仲の妻・巴御前が戸出出身であるとする伝承(駒かけの松伝説)と関係するのではないかと考えられています。
戸出野神社秋季祭礼(秋祭り)の神輿渡御(神輿をお移しすること)の幌には「巴御前」の絵が描かれています。

寺町

 永安寺が建立されているためにこの名がつけられました。

馬場町

 千保川の番屋があったから、それが訛って「馬場町」となったのではないかと考えられています。

北町

 町並みの北部に位置することからこの名がつけられました。

本町

 古くは「中町」と呼ばれていました。町並みの中央に位置することからこの名がつけられました。

新田町

 古くは町並みの西部に位置することから「西町」と呼ばれていました。新田才許(加賀藩より新田を開墾するよう命じられた役職)が新たに開墾した地名から「新田町」となりました。

富久町

 古くは「南町」と呼ばれていました。昭和41年2月に高岡市へ合併する際に「富久町」と町名が変更されました。

古中東町
古中本町
古中西町


 「古戸出」「中之宮」の頭文字をとって「古中」と呼ぶようになりました。

戸出地域内の新しい地名

オフィスパーク

 高岡オフィスパーク整備事業により作られました。地名を決める際、その事業名「オフィスパーク」を用いて地名としました。旧戸出石代地内。


戸出栄町

 (作成中)

戸出葵町

 (作成中)

戸出青園町

 (作成中)

戸出池田町

 (作成中)





※ 参考文献:戸出町史

 戸出町史に書かれている内容を基に、わかりやすいよう現代語に書き直しました。誤解釈や、誤字・脱字などを見つけられましたらお手数ですがご一報下さい。随時修正します。


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