旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)


<第3日目>
戸出駅〜常国一里塚〜弓の清水

富山県の旧北陸道観光3日目は、
JR戸出駅(高岡市)からスタートし、弓の清水までを往復して戸出駅に戻ります。


旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(中之宮一里塚跡1)

中之宮一里塚は、現在のJR城端線戸出中田往来踏切付近にありました。
西隣の矢部一里塚、東隣の常国一里塚の位置や古地図などから
この場所にあったと推定されています。

正保4年(1647)の『越中道記』には、
一里塚の場所として「中ノ宮村はづれ」と書かれています。

現在、中ノ宮といえば戸出町4丁目(戸出市街地の西端)ですが、
戸出市街地が成立するまではこのあたりまでが
中之宮村の領内だったようです。

上の写真右側に見えるのは戸出東町の地蔵堂です。


旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(中之宮一里塚跡2)

現在、戸出東町地蔵堂には19体のお地蔵様がいらっしゃいます。

比較的大きなお地蔵様が7体ありますが、像容、石材、作風から
このうちの6体は本来六地蔵として1セットだったことがわかっています。

お地蔵様らは、明治20年頃まで現在の戸出公園内にあった火葬場から
移転してきたと言われていますが、全てのお地蔵様が
偶然に「一里塚があった場所」に移ってきたとは考えにくいでしょう。

何体かのお地蔵様が火葬場にあり、
何体かのお地蔵様が以前からこの地にあり、それらが集められて
現在の東町地蔵堂のようになったのでしょう。

近隣の砂川一里塚跡、芹川一里塚跡、矢部一里塚跡には
共にお地蔵様が置かれていること(砂川、芹川は六地蔵)、そして
この地がちょうど一里塚があった場所であることを考えると
戸出東町地蔵堂が「一里塚跡」だと考えるのが妥当でしょう。


19体の内、どのお地蔵様が以前からこの地で
一里塚跡を表していたのか今となってはわかりません。
ですが私は六地蔵がもとから一里塚跡にあったような気がします。

多くの人が街道を行き交った時代です。
近隣の一里塚跡の様子は地元の人たちも知っていたことでしょう。
地元住民が、旅人の通行の安全を願って
近隣と同じような六地蔵を建てたのではないでしょうか。
(もしかしたら、砂川や芹川の六地蔵より戸出のほうが
古いのかもしれません。いつか同位体を使って
年代特定してみたいものです。)

お地蔵様たちは今日もやさしく
「ここには一里塚があったんだよ」
と私たちに囁きかけてくれている気がします。

江戸時代始め〜中期にかけ、このあたりはちょうど
当時は庄川の本流であった千保川左岸の川辺でした。
川合文書によると一里塚は
万治3年(1660)の洪水で流されてしまったとのことです。

前田のお殿様がせっかく築かれた一里塚です。
歴史を後世に伝えるためにも、いつかここには
「北陸道一里塚跡」の立派な石碑を建てたいと思います。


また昭和中期までは、千保川の左岸堤防が
JR城端線の西側に沿って残っていたそうです。
きっと、明治時代には堤防はもっとはっきりと残っていて
城端線の線路はその堤防に沿って敷設されていったと考えられます。
 
 
夕顔塚;旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(夕顔塚)

中之宮一里塚跡の隣にある寺は太玄寺で、
戸出出身の歌人・尾崎康工が晩年「六壁庵」と呼ばれる庵を結んだ場所です。

尾崎康工は、元禄15年(1702)に戸出出身の歌人で、
40才を過ぎる頃から芭蕉の遺風を慕って全国を行脚しました。
芭蕉の墓がある近江の義仲寺に長い間墓守として滞在しました。
宝暦14年(1764)、俳諧版の百人一首ともいえる「俳諧百一集」を上梓し
当時の大ベストセラーとなりました。

太玄寺境内にある夕顔塚(写真中央の石碑)は、尾崎康工門下の尾崎玉可が
師に感謝するために文化10年(1813)に建てたものです。

「燈もひとつ また夕顔の 見えにけり」


川原の宮;旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(川原の宮)

川原の宮がある戸出公園は、江戸時代初期の頃は
千保川(当時の庄川本流)の川原でした。
公園内にある「川原の宮」は、舟出祈願の守護神として
戸出開祖の川合家が建立したとも、また海運業で財を成した戸出の豪商
竹村屋茂兵衛が航行安全のために水運の神を祀ったものとも伝えられています。


駒繋ぎの松;旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(2代目駒繋ぎの松)

写真の大きな松の木は「2代目駒繋ぎの松」と呼ばれています。
河原の宮の近くにあります。

木曽義仲が倶利伽羅峠へ進軍する途中この地で休憩し、
馬を繋いだという大きな松の木がありました。

その松の木は「駒繋ぎの松」と呼ばれ、
今の戸出駅の東側あたりに茂っていましたが
明治42年(1909)8月、開発のために伐採されてしまったそうです。


駒繋ぎの松;旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(「駒繋ぎの松」石碑)

史跡「駒繋ぎの松」を遺す石碑「木曽義仲駒繋之松碑」が
設置されています。

個人的に、平安時代の北陸道は、戸出吉住あたりを通っていたと思っていますが
もしかすると初代・駒繋ぎの松のあたりを通っていて
本当に木曽義仲がそこで休んでいたのかもしれません。

今は公園の一番隅に追いやられてしまっている石碑ですが、
いつかはもとの松が繁茂していた場所に移し
そばに木曽義仲公の銅像を建てられれば、
将来つくられるであろう戸出駅東口のシンボルとなるかもしれません。


物産神社;旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(物産神社)

戸出物産株式会社の敷地内にある戸出物産神社です。
戸出物産株式会社は明治29年(1896)に設立され、
富山県内において最も早く設立された株式会社のひとつです。

敷地内には会社が従業員の児童のためにつくったといわれる
学校校舎が残っており黒板のある教室も残っています。
戸出物産の建物群は、当地の近代産業歴史を伝える
高岡市の宝であるといわれています。
(今後本格的に調査したいものです。)

戸出町は明治時代、繊維業界の最先端地域となっていました。

脇には、会社創業者であり、初代戸出町町長を務めた
吉田仁平の胸像が建てられています。


千保川;旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(新川〈千保川〉)

戸出は、千保川と旧北陸道が交差する要衝の地にひらかれましたが、
開町のきっかけとなったのがこの千保川です。

戸出町開町当時の千保川は、庄川の本流となっており、
西は現在の戸出公園あたりから東は大清水神社までの川幅約800mの大河でした。

千保川(せんぼがわ)は、現在地元では「新川(しんかわ)」と呼んでいます。
(戦後間もない頃はこの辺り一帯は「しんかい」と呼ばれ
川のことも「しんかい」と呼んでいたそうです。
千保川の河原跡を拓いた新開地だったことが語源のようです。)

写真に滝のようなものがいくつも写っていますが、
この滝は川の流れを緩やかにするために設けあるものだそうで、
これがないと急流になってしまい、
誤って人が川に落ちたときに危ないのだそうです。

この滝も、ここが庄川扇状地にあることを物語っています。


西住墳碑;旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(西住墳碑)

戸出大清水の永願寺境内にある西住墳碑です。
西行法師と共に全国を旅した弟子・西住の墓石です。

元々この墳碑は、西住の出身地である砺波郡三谷村にあったのですが
「大清水御亭造成のために大石を各地から
集めた際に誤って大清水に持ち込まれた」そうで、
当時の永願寺住職が
「これも何かの因縁があるのだろう」ということで
三谷村には戻さず永願寺境内に建てられたそうです。
(現在三谷村には二代目の石碑が建てられています。)


大清水御亭とは大清水御旅屋のことだと思われます。
大清水御旅屋には、前田利家が豊臣秀吉公より賜った
聚楽第の御殿が移築再建されていたといわれています。
(聚楽第の一部は、高岡御車山にも使用された
ともいわれています。)

どこまで信ぴょう性が置ける話なのかはわかりませんが、
大清水御旅屋があった場所は、
集落の東よりで県道40号線(庄川高岡線)よりの西、
旧北陸道の北側だと思われます。
(県道9号線の北側には「御旅屋島」という小字があります。)

大清水集落の東側には「御旅屋」という苗字が多く、
全国の御旅屋姓の家は全てここ大清水集落に縁があると
いわれています。

御旅屋のほか、大清水には加賀藩の御蔵
(大清水御蔵)が置かれていました。
大清水は戸出に町がひらかれる以前は当地方の
中心地として栄えていました。


大清水集落;旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(大清水で見つけた河童?)

戸出大清水の古い家で見つけました。
河童でしょうか? 門の両側に2人いました。


増仁の宮;旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(増仁の宮)

庄川堤防上から見た増仁の宮の遠景です。
(写真中央の森になっているところ)

増仁村は、江戸時代の度重なる庄川の氾濫により廃村となった村ですが
神社だけが現在まで残っています。

神社だけが残る例は珍しく
庄川の暴威を遺す史跡とされています。


あしつき公園;旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(あしつき公園と葦附苔)

庄川を渡り、中田町へと入ります。

あしつき公園内には、大伴家持が雄神川のほとりで詠んだ
「雄神河くれなゐ匂ふをとめらし 葦附とると瀬に立たすらし」
の歌碑や、
「天然記念物葦附繁殖地」の石碑などがあります。


雄神川は庄川のことを指しますが、
大伴家持の時代にこの地に雄神川が流れていたかどうかはわかりません。

現在の砺波市庄川町あたりで詠んだ歌だとする説が有力ですが、
葦附苔がこの付近でよく繁殖していることを考えると
本当にこのあたりで詠まれたのかもしれません。


しおり塚;旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(志を里塚〈しおり塚〉)

旧北陸道から少し南の「鎮守の森公園」にある「志を里塚」です。

水運での運搬が主流だった江戸時代、
庄川と旧北陸道とが交わる中田もまた要衝の地でした。
中田には庄川を行き交う舟を取り締まる関所が設けられていました。

あるとき、関所での厳格な取締りに不満を募らせた庄川下流の船頭らが
中田の関所係員に暴力を加えようと押し寄せました。

中田の塩谷忠兵衛はその暴動をしずめようとしましたが、
暴徒によって惨殺されてしまいました。
その忠兵衛の霊を祀るためにしおり塚は築かれました。
(「しおり」とは泣く、悲しむという意味。
 「塩谷」とかけてあるか。)


移田八幡宮;旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(移田八幡宮〈いかだはちまんぐう〉)

中田の氏神様である移田八幡宮(いかだはちまんぐう)です。

伝説では白鳳2年(674)の建立といわれます。
貞観5年(863)の歴史書にも記録があり、
平安時代初頭には既に多くの人がこの地に暮らしていました。

「平安時代の北陸道」のところでも書きましたが、
移田八幡宮が「江戸時代の北陸道」から南に外れていることからも
平安時代以前はもっと南を通っていた可能性をうかがわせます。

中田にあった加賀藩御蔵(中田御蔵)は
この神社の西側にあり、新開川から下流の吉久御蔵などへ
運ばれていました。


常国一里塚跡;旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(常国一里塚跡)

常国一里塚跡です。

石川県-富山県境から見て来てすべての一里塚跡に
お地蔵様がいらっしゃいました。
(砂坂一里塚跡にはお地蔵様の痕跡のみ)

ですが、ここ常国一里塚跡にはいらっしゃいません。
(代わりに不動明王様がいらっしゃいます。)

理由はわかりませんが、道路改修の際に
別の場所に移されたのかもしれません。

今でも、道路改修工事の関係者の家の庭先かどこかで
見つけられるのを待っておられるような気がします。


弓の清水観音;旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(大悲寺)

木曾義仲が弓の清水にて泉を探し当てた話は有名ですが、
泉が湧き出たことに感激した義仲は
地元住民にお堂を作らせ、観音様を安置されました。

この仏様が「弓の清水観音」で以前は弓の清水のあたりに
ありましたが、お堂が荒廃したため
天明2年(1782)、現在地(大悲寺)に観音様を移されました。

「弓の清水観音(=常国聖観音菩薩)」は
33年毎の開扉法要のときにしか拝むことはできません。


上の写真の仏像と「弓の清水観音」との関係は
また近いうちに調べます。


弓の清水;旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(弓の清水1)

木曾義仲が弓で地面を突いたところ、
清水が湧き出たことで有名な史跡・弓の清水です。


弓の清水;旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(弓の清水2)


弓の清水木曽義仲像;旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(清水を探り当てる木曽義仲像)


弓の清水古戦場;旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(弓の清水古戦場)

ここでは、般若野の戦いが行われたといわれています。

寿永2年(1183)5月9日の明け方、加賀より軍を進め
般若野の地で兵を休めていた平氏軍の先遣隊平盛俊の軍を、
木曾義仲の先遣隊・今井兼平の軍が奇襲し、勝利しました。

この戦いの後、木曾義仲はこの地で今井兼平の軍と合流し
弓の清水を掘り当てた後、
倶利伽羅峠の決戦に向かったといわれています。


中田の渡しの常夜灯;旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(中田の渡しの常夜灯)

常国神社境内にある中田の渡しの常夜灯です。
「弘化二年」(1845)と銘が彫られています。


現在の庄川の戸出−中田間には「中田橋」がかかっていますが
橋が初めてかけられたのは明治21年(1888)のことです。

それ以前には、ここには渡し舟がありました。
写真の常夜灯はこの中田の渡しのもので、
両岸分の2基ともが境内に保管されています。

中田の渡しは、寛文9年(1669)から明治21年までの
約220年間利用されていました。

(それ以前は、庄川の本流が千保川筋だったため、
水かさは少なく、渡し舟はなかったようです。
加賀藩主・前田綱紀によって庄川の本流が
現在の川筋に変更されたため渡し舟が必要となりました。)


旧北陸道にあったこれだけ立派な常夜灯ですが、
そばには記念碑も解説文もありません。

地元の方々や、市教育委員会の奥ゆかしさを感じさせます。


六芳焼;旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(六芳焼)

旅の後わりは銘菓「六芳焼」で有名な松原清松堂さんです。

六芳焼は、明治33年(1900)の創業以来販売されているそうで
弓の清水の名水で生地を練られているそうです。

このお店のそばにある小川が高岡市と射水市との境界
(旧砺波郡と旧射水郡の境界)だそうです。