旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)


<第2日目>
石動駅〜芹川一里塚〜中ノ宮一里塚〜戸出駅

富山県の旧北陸道観光2日目は、
JR石動駅(小矢部市)からスタートします。

2日目はJR石動駅からJR戸出駅までの
一里塚4箇所(砂川、芹川、矢部、中ノ宮)分を歩きます。
やはり5時間程度の時間を見ておけばよいでしょう。

自動車を利用されるかたはJR戸出市街地周辺にクルマをとめておきましょう。

持ち物として、国土地理院発行の2万5000分の1の地図(戸出)を
事前に買いましょう。

石動市街地は、
石動町→中央町→(商工会前交差点で右折)→新富町→今石動町→
西福町→東福町→芹川のルートが江戸時代の北陸道だと思います。

このあたりのルートは今後もう少し勉強していきたいと思っています。

(このあたりには、古く味わいある街並みが富山県西部最大の規模で
 残されているそうです。近日中に訪れて本ページに加筆致します。)

旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(地理調査所発行の地図<昭和30年>)

赤線が引いてあるところが江戸時代の北陸道です。
(クリックで拡大します)

芹川→地崎→柳川→木舟→開→棒野→矢部→夏住→横越→油屋
の各集落を通って戸出町市街へ通じるルートです。
夏住〜戸出市街入口まではほぼ富山県道9号線と重なります。


旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(芹川・木曽義仲進軍の石碑)

旧北陸道沿いに「木曽義仲がこの道を通って倶利伽羅峠に向かった」
旨が書かれた石碑がありました。


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(芹川一里塚跡)

芹川集落の北側に一里塚跡が奇麗に整備されています。

砂川一里塚跡と同じく、街道の要所をあらわす六地蔵が建てられています。


お地蔵様は地獄での責め苦を私たちに代わって受けていただく
菩薩様として、また迷わずに冥土へ案内役として
全国に広く信仰されていました。

そこから転じて、
お地蔵様は旅人の道案内をするとされました。

そして、主だった街道の要所要所には
地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道をつかさどる
6体のお地蔵様を1セットとする六地蔵(六体地蔵ともいう)
が置かれるようになっていきました。


旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(芹川の民家の七夕)

芹川の歩いたのは7月初旬でしたので何軒かの七夕が飾られていました。
小矢部市でもやはり七夕は7月7日のようです。

(市周辺部を除く)高岡市中心部では、
現在は8月に七夕まつりが開催されるようになっています。
早く本来の7月開催に戻したほうが、みんな自然に
七夕まつりを祝える気持ちになって良いのになぁ、
などということを考えさせられました。


(このページには後日改めて撮影した写真、
冬季に撮影した写真もありますが気にしないで下さい。)

旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(木舟城跡)

天正13年(1585)11月に起きた天正大地震により
木舟城は崩落し、城下町も壊滅しました。

高岡市中心部にも「木舟町」という町がありますが
その由来はこの木舟城城下町の民が移り住んだからだそうです。

天正大地震といえば、現在戸出町と中田町との間にある庄川の流れができたのは
この大地震がきっかけだといわれています。

1つの地震さえがなければ、庄川の流れは今とは全く異なっていたし
もしかしたら木舟が富山県西部の中心になっていたかもしれない・・・
と、地理ロマンを掻き立てられます。


旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(美しい稲葉山)

写真は高岡市福岡町開(かいほつ)のあたりです。
西を望めば稲葉山の風力発電風車が3機回っています。

北陸道を京方面へ上っていた昔の旅人らは
きっとこの稲葉山を目印にしていたことでしょう。

このあたりは農地が整備されて旧北陸道の面影はありませんが
木舟城下町と矢部一里塚で結ばれるこのあたりに
北陸道が通っていたことは間違いありません。

旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(岸渡川・西野橋)

岸渡川にかかる西野橋から南の方角を撮ったものです。

室町時代の中後期の頃は、この岸渡川筋が庄川の本流でした。
きっと当時はこのあたりも川床だったことでしょう。

このあたりも砺波平野と呼ばれますが付近では散居村は見られません。
散居村は、少し上流にある庄川扇状地扇央部の灌漑地帯に発達しています。
このあたりは扇端部にあたり湿田地帯だったため散居村とはなりませんでした。


旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(矢部一里塚跡1)

矢部一里塚跡に到着です。

写真の左側に地蔵堂があります。
このカーブした道の両側に一里塚が築かれていた筈です。


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(矢部一里塚跡2)

矢部一里塚跡には写真の地蔵堂が建てられています。


旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(矢部−夏住間)

信号機のある矢部交差点を100mほど南へ行くと、
南東方向に伸びる道があります。
(国土地理院2万5000分の1の地図でもわかります。)

それが、矢部と夏住間に残る旧北陸道(上の写真)です。

「農地整備後の田んぼには東西方向、南北方向の道が多いのに
なぜこの道だけは北西-南東方向に走っているんだろう。」
「なぜこの道は微妙にくねくねと曲がっているのだろう」
という謎も、旧北陸道であることがわかれば納得できるでしょう。

知らない人にとってはただの変わった農道ですが、
古の旅人の姿を思い浮かべることができる人にとっては特別な道です。


旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(夏住に残る旧北陸道)

現在の夏住で、神明社の北側を県道9号線とほぼ並行に
通っている道が旧北陸道です。
道幅は江戸時代以来の2間幅です。

200mほどの区間ですが旧街道の面影を残しています。


旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(荒又川)

荒又川を渡ります。

この川は、室町時代後期から
木舟城が崩壊した天正の大地震(1585年)までの間、
庄川の本流となっていた川です。

庄川の本流は、太古より東へ西へとその流れを変えて
全国有数の扇状地「庄川扇状地」を形つくるに至りました。

その流れは、室町時代以降では
岸渡川筋→荒又川筋→千保川筋→現在の流れへと
東へ東へと変わってきています。


旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(一反橋)

戸出町市街地に入りました。
一番西に位置するここは古中西町です。

祖父川、松川の合流地点には「一反橋」と呼ばれる橋があります。
川幅が大きいほうが祖父川です。
橋の長さが綿布一反(約7m)だったため「一反橋」と名づけられたそうです。
昔は川幅も大きかったのでしょうか。
(一反歩の広さの池があったのが由来だという説もあります。)

ここは戸出町の西側の入口にあたり、
旅人の休憩ポイントとして知られていました。

旧北陸道は、福町(小矢部市)から戸出までの間は町がなく
田園風景が広がっています。江戸時代の旅人は
一反橋での休憩を楽しみにしながら田園の中の歩いていたことでしょう。

一反橋は、さしずめ現代のドライバーにとっての「道の駅」
のような場所だったと思われます。


旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(一反橋地蔵)

一反橋の傍らには「一反橋地蔵」と呼ばれるお地蔵様がいらっしゃいます。
江戸時代、旧街道を旅する人の安全を祈るため
また川の精霊に感謝するために祀られたといわれています。

一反橋地蔵堂のすぐ左横にあるのは
江戸時代の菓子屋・今村久兵衛(いまむらきゅうべい)の石碑です。
久兵衛は、白米を粉にした餅のなかに、小豆と黒砂糖を混ぜて餡を入れて
「焼餅」としてこのあたりや露店などで売っていたそうです。

焼餅は巴御前の鎧の形を模してつくられていたそうです。

(戸出市街地には「巴町」という町があり、
秋祭りの際は地元の子供が巴御前の姿に扮します。
「巴御前は戸出の村娘だった」なんていう民間伝承もあります。
戸出は何かと巴御前に縁のある町でもあります。)

一反橋では、昭和初期の頃は旅人向けの「ところてん」が名物だったそうです。


旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(中之宮神社)

旧北陸道沿いにある中之宮神社の境内には、
江戸時代に石橋として川に架けられていた石が保存されています。

現在のファミリープラザハニー跡には、
加賀藩によって砺波郡最大の御蔵・戸出御蔵が置かれていました。

御蔵へ米を運ぶ道は「御収納道」と呼ばれ大変整備されていました。
御収納道上の川には「木の橋」ではなく「石の橋」が架けられていました。


旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(古中西町・七夕)

戸出市街地の賑やかな七夕飾りが見えてきました。
戸出七夕まつりは日本一美しい七夕として
近年は全国的に知られるようになってきました。


古中西町から東町までの旧北陸道は「七夕通り」とも呼ばれます。

「古中」(ふるなか)という地名は、古戸出(ふるといで)、中之宮(なかのみや)という
2つの旧村名の頭文字から合成してつくられたものです。
およそ旧北陸道の北側が旧・中之宮村、南側が旧・古戸出村でした。


古戸出村は戸出町開町以前からあった村で、
「灯油田村」と呼ばれていました。
灯りをとるための油が特産品だったのでしょう。

戸出はこの村の隣(現在の戸出町3丁目/戸出本町)で開かれ、
その際に「灯油田」をもじって「戸出」という漢字が当てられました。
(「戸」を「い出る」ということで、「外へ出て周辺を開墾していこう」
という意味を持たせたとも言われています。)

新しく開かれた村は、戸出村あるいは戸出新村と呼ばれました。
で、元からあった灯油田村も戸出村と呼ばれるようになりました。

戸出という名の村が2つあってはややこしいので、
もとからあったほうの村を区別して「古戸出」と呼ぶようになったのです。

今でも、古戸出の氏神様は「戸出神社」で、
戸出の氏神様は「戸出野神社」です。ややこしいですね。


旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(戸出大仏)

旧北陸道沿いにある戸出大仏は、
江戸時代末期の飢饉で亡くなった人々を供養するため
地元の方々の浄財によって建てられた石仏です。
石仏としては富山県で最も大きな仏様であるといわれています。

お地蔵様(地蔵菩薩)と呼ばれることもありますが、
正確には阿弥陀如来像であることが
頭髪と手の組み方(印相)からわかります。


旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(戸出野神社1)

旧北陸道沿いにある戸出野神社です。
春季祭礼の頃の写真ですので提灯がたくさん飾られています。

この大鳥居は、伏木(高岡市)の廻船問屋らが神社に寄進したもので
鳥居には寄進者や舟の名前が刻まれています。

旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(戸出野神社2)

春季祭礼の際には、神社に奉納された歌が掲げられます。

戸出野神社の名物は「神様に尻を向ける馬」の像です。
神様に尻を向ける馬の像は大変珍しいそうです。

「珍しいもの」=「有り難いもの」です。
馬の尻でも撫で上げれば運気が上がるかもしれません。


戸出野神社の参道は北→南方向に作られているにもかかわらず
社殿は東向きに建てられています。

これは戸出野神社に拝むことで、その方向の先にある
金沢の前田家を拝むことになるよう考えられているためです。

また戸出の中心にあった戸出御旅屋からも
戸出野神社と、加賀の金沢城が同じ東方向になるように考えられています。



旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(戸出の地酒「勝鬨」)

高岡市戸出町3丁目(本町)にある
戸出の地酒「勝鬨」を販売している酒屋さんです。

旧街道には酒蔵が似合いますが、
現在はこの場所では醸造は行っていらっしゃらないそうです。


旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(戸出御旅屋跡)

旧北陸道沿いの高岡市戸出町3丁目(本町)には戸出御旅屋跡があります。

御旅屋(おたや)とは、加賀藩主が鷹狩や参勤交代などの際に
宿泊や休憩のために使われた施設をいいます。
戸出の御旅屋は加賀藩3代藩主・前田利常によって建てられました。

鷹狩の際は、前田のお殿様は戸出御旅屋で休憩して
金沢城へ日帰りされたのでしょうか。戸出にお泊りになられたのでしょうか。
はたまた別の領地へと向かわれたのでしょうか。
(昔の騎馬は長い距離を速く走れなかったと聞きます。
金沢⇔戸出は日帰りが可能だったのでしょうか。
・・・と、そんなことも気になります。)


戸出御旅屋跡には、
樹齢約380年の高野槇(コウヤマキ;写真)が残っています。
この高野槙は戸出町開祖二代目の川合又右衛門が
加賀藩初代藩祖の前田利家を弔うために
高野山に参拝した際に持ち帰ったと伝えられています。

また戸出御旅屋跡には、今でも前田のお殿様がお飲みになられた井戸が
「御膳水井戸(ごぜんすいいど)」として残っています。


旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(戸出の四つ角1)

東西に伸びる旧北陸道と、南北に伸びる街道
(福光街道、加賀街道とも)が交わる交差点は、
「戸出の四つ角」と呼ばれています。

「戸出の四つ角」にある古い薬局は、正面から見ても
趣のある立派な建物ですが、
屋根に鯱が乗った立派な蔵も、しゃれた庇と出窓がついていて
文化財並みに美しい、と思います。


戸出には22蔵から成る砺波郡最大の加賀藩蔵
「戸出御蔵」がありましたが、明治に入って
藩蔵は民間に払い下げられ散り散りになりました。

藩蔵だった蔵の多くは今でも戸出の町中に残っているそうです。
(この薬局の蔵が藩蔵であったかどうかは未確認です。)


旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(戸出の四つ角2)

「是より本町」と書かれた看板が旅情をそそります。

南北に伸びる街道と、暗渠となっている玄手川をはさんで
西側が本町で、東側が巴町(ともえまち)です。


旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(戸出巴町の街並み)

このあたりが、明治22年町制施行時に初代戸出町長を務めた
吉田仁平の屋敷があったところです。明治の頃は
「戸出の四つ角」から報恩寺までの広大な敷地の屋敷だったそうで
近辺には今でも吉田姓の家が目立ちます。


戸出に縁のある人物で最も知名度が高いのは
日本を代表する建築家であり、
日本建築を世界へと広めた功労者・吉田鉄郎でしょう。

日本の建築に興味を持った外国の建築家は
必ず吉田鉄郎が書いた本を読んだそうです。

鉄郎は明治27年に福野町の五島家に生まれ、大正8年に吉田仁平
(注:初代戸出町長の長子。吉田仁平家では代々「仁平」の名を襲名した)
の養子となり、仁平の長女・芳江と結婚しました。

戦時下である昭和19年3月から昭和20年8月までの間、
鉄郎は疎開を兼ね、この地で一人静養していました。
(上の写真よりもやや西側。現在の河南呉服店の場所に当時、
吉田養五郎邸の離れが残っていました。鉄郎はそこで静養していました。
おとなりは旧・青木医院さん。今でも洒落た洋館として残っている。)

静養中は当地で、ブルーノタウトの書籍の翻訳作業や
中田町まで散歩に出かけるなどして
のんびり過ごしていたことが知人宛ての手紙に記されています。

鉄郎は戸出町について、
「古い町ですが馴れてくるとなかなか静かで落ち着いていていいです。」
と書き残しています。


いつかこのあたりに
「吉田鉄郎と近代日本建築記念館」
のようなものを建てて、その功績を顕彰したいものです。


旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(JR戸出駅)

2日目のゴール地点はJR戸出駅です。

明治29年(1896)10月10日に竣工した戸出駅舎は 福野駅と並び、秋田以南の日本海側で最も古い鉄道駅舎です。

平成22年(2010)1月
富山県近代歴史遺産としての指定を受けました。

旧北陸道を歩く(富山県高岡市戸出町)
(戸出駅舎「建物財産標・明治30年5月」)

富山県で最初に開業した中越鉄道(現在のJR城端線)の
機関車材料は、イギリスから伏木港を経て、
千保川(せんぼがわ)→玄手川(げんてがわ)と川舟で移送され
駅東側にあった戸出機関庫に運び込まれて
組み立てられたものです。

現在、砺波市のチューリップ公園に展示されている機関車は
戸出で組み立てられた最初の3台のうちの1台です。


そのため、戸出駅は富山県が全国に誇る
鉄道文化発祥の地として知られています。

当地方で最も由緒ある町の玄関口として建てられた
威風堂々たる駅舎は全国各地から毎年多くの
鉄道ファンらを呼び寄せまています。

ここには「富山県鉄道文化発祥の地」の銅像と碑を建て
大矢四郎兵衛、矢後孫二らの偉業を讃えたいと思います。



このページでは、石川県境〜戸出までを
2日間かけて歩くコースとして紹介しましたが
江戸時代には1日で歩く行程であったと思います。

明け方に竹橋(たけのはし;石川県津幡町)を発った旅人は、
夕刻には戸出の宿に到着していたと思われます。
若くて健康な旅人であればもっと歩いたかもしれません。

戸出は、加賀藩の藩蔵、そして藩士の知行米を保管した御蔵の町として、
また八講布などの織物業によって発展してきた町として知られていますが
宿場の機能も大切な戸出町の役割でした。

戸出には南北方向にも何本もの道が存在しますが
市街地は旧北陸道に沿って東西に細長く発展してきました。
戸出市街地の形からも
当時の旧北陸道が重要な道であったことがわかります。