「一大珍事」だった明治41年の発掘


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「一大珍事」だった明治41年の発掘

File0354a-1.jpg明治41年の出土品馬場城ヶ平・加茂横穴墓(高岡市教育委員会文化財課提供画像)

本コーナーでは、栗山雅夫氏の「考古資料にみる西山古墳街道」(同氏編『黄泉之国 再見 〜西山古墳街道〜』(考古学リーダー8 六一書房 2006)を参照し、一部引用しました。(以下『黄泉之国 再見』とします)

『黄泉之国 再見』に次の記載があります。(以下、明治41年3月のことでした)
「地元住民が書き残した『人骨古器発掘記録』(吉井家所蔵)によれば、発掘開始翌日の19日には、新聞記者が取材に訪れ20日には「前代未聞の一大珍事として特筆大書」されたことから「近郷近在は勿論遠く数里の所より観覧者引きも切れ」ない状況となり、城ヶ平山はもとより出土品を展示した民家には「人の黒山を築き、其の混雑実に名状すべからず」という様相を呈した。」(『黄泉之国 再見』p98)とあり、
明治の末にこのような事件とも言える事態があったことに驚かされます。
いったい何があったのでしょう。

0914-011マップ_D.jpg画像出典:西山歴史街道パンフレット&マップ「みちくさ」(高岡市教育委員会文化財課 平成21年)上のモノクロ写真の中の文字は、「明治四十一年三月十九日富山県西砺波郡西五位村大字馬場村ニ於テ発掘ノ分」と読むことができそうです。
その中の「西五位村大字馬場村ニ於テ発掘」は、現在の富山県高岡市福岡町馬場(Googleマップへ)にあたり、舞谷・馬場の両地区にまたがる城ヶ平横穴墓群の馬場側で発掘されたことを示しています。

その城ヶ平横穴墓群というのは、標高173.6mの城ヶ平横穴古墳(県指定史跡 左図のNo21)の山腹である標高150m〜160m付近に所在する横穴墓群のことで、これまでに舞谷側に43基、馬場側に9基の合計52基が確認されています。(『黄泉之国 再見』p110参照)

そこでの最初の発見の状況について栗山氏は、
File0355a.jpg3月21日、越中誌編纂評議員の窪美昌保や井上紅花を含む富山県警務長一行が実地踏査のために訪れた際の登山記念写真(『黄泉之国 再見』p98、画像:高岡市教育委員会文化財課提供)「同(明治)41年3月18日午後3時、地元の石灰組合の人夫によって旧赤丸村、旧西五位村の舞谷・馬場地区にまたがる城ヶ平横穴墓群が発見され、遺物が掘り出されたことで一躍脚光を浴びることとなる。」(同書p97)とまとめています。そして、それほどに注目を集めなければならなかったことについては、
「当時は、横穴の構築目的について住居なのか墓なのかと決着がついておらず、いわゆる「穴居論争」が盛んに交わされていた頃」だったとその理由を示唆しています。

0914-010_052-02.jpg画像:「富山福岡西山丘陵整備基本構想」(福岡町教育委員会 平成17年)p52中央における考古学のそうした論争が、当時第一線で活躍していた著名な学者たちを、熱心な新聞記者(高岡新報の主筆 井上紅花)を、時には「代議士等300名もの一行」を、そして地元の人たちを巻き込んで一大センセーションを巻き起こした、「富山県の考古学史上、重要な足跡である」(同書p98)と位置付けています。



頭椎柄頭(形態)a.jpg鉄製の銀象嵌頭椎柄頭(東京国立博物館所蔵)   その時の出土品の一つが、現在東京国立博物館に所蔵されている鉄製の銀象嵌頭椎柄頭(ぎんぞうかんかぶつちのつかがしら)です。
栗山氏は、上記の写真と関連づけて、
「鉄製の銀象嵌頭椎柄頭は、古写真から馬場城ヶ平横穴墓から出土したことは間違いなく、県内における頭椎柄頭の出土例が呉羽山古墳(富山市)と城ヶ平しかみられないという点は、重要である。さらに、従来の横穴墓の被葬者観に照らし合わせると、副葬品としては頭椎柄頭を納めた点は異色であり今後の検討課題といえる。」(同書p100)としています。

終盤で触れられた「副葬品としては頭椎柄頭を納めた点は異色」という指摘については、今回行われた同氏へのインタビューの際にさらに具体的な説明を得ています。ぜひそちらもご参照下さい。

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