自然と歴史の宝庫『西山歴史街道』p2


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0914_004.jpg左:江道横穴古墳群「西山丘陵整備基本構想【旧高岡市域版】」(高岡市教育委員会 平成20年)p27より(資料:『高岡市の文化財) / 右:江道23号墓(高岡市教育委員会文化財課提供)

『西山歴史街道』は自然と歴史の宝庫です(第1回)p2

西山歴史街道は遺跡の宝庫……山城、古墳、横穴墓

CIMG4228a.jpg栗山雅夫氏へのインタビュー風景西山歴史街道のエリアを大きく8つに分けています。その中の要素でよく似ているのは、典型的には、低い見晴らしの良い山の上に中世の山城(やまじろ)が作られていること。
そこから下ってきたところ、麓筋に古墳を作ったりする。その古墳もこのあたりで特徴的なのは、横穴墓(よこあなぼ/おうけつぼ)です。古墳時代でも末期の、山裾に穴を穿(うが)ってそこに遺体を納めています。
時代背景はキトラ古墳だとか高松塚古墳が作られていた頃になります。
終末期、古墳時代の終わりですね。仁徳天皇陵だとか大きな前方後円墳が作られた時代から下って7世紀から8世紀の初めくらい。その時期のものがたくさんあって、県内で見つかっている横穴墓が300基くらい、その3割ほどが小矢部川左岸の丘陵沿い、まさに高岡市、旧福岡町、小矢部市にかけて集中しているのです。(古墳は約1000基、小矢部川左岸で約300基)
山城があって横穴墓があって、さらに円墳だとかの古墳もたくさんあって、少なくとも古代中世に関してここは遺跡の宝庫と言えるのです。


明治41年(1908)の発掘

File0355a.jpg馬場城ヶ平三連結横穴墓前(高岡市教育委員会文化財課提供)発掘されたところには、加茂の横穴墓があります。城ヶ平(じょうがひら)にも横穴墓が。それらは実は明治41年に発掘されています。今で言う発掘調査と言えるかどうかは分かりませんが。
掘ってみると昔の土器、須恵器(すえき)、土師器(はじき)やたくさんの供え物、つまり副葬品が出てきました。人骨もたくさん。
大勢の新聞記者や学者もやって来ました。というのは、ちょうどその当時、横穴墓が住居なのか古墳なのかよく分かっていなかった状態で、両方の論争が戦わされていたのです。そのため全国的にも注目を集めたわけです。
偉い学者も来て地元で講演会も行われました。当時は町や市で発掘するというようなことはありません。学者さんが来て……、今は東京の国立博物館に遺物が残されています。
でも、発掘する人夫さんは地元の人でしたから、古い家の納屋などに今もしまわれていたりするようです。そのおかげで、福岡歴史民俗資料館の方にも寄託されそこで現物を見ることができます。


横穴墓のルーツと伝播

0914-008_032-01.jpg横穴墓形態モデル:富山・能登における横穴墓の模式図 出典:『ふくおかの飛鳥時代を考える』(福岡町教育委員会 2005)p32より横穴墓がどういう形式でどこから伝播してきたものか。もともと北九州とかが日本で言う元の所でだいたい5世紀の初め頃だろうとされています。向こうで横穴墓という形式が始まってそれが日本海沿いに普及していく。横穴墓は斜面を穿つから、固い岩盤のところでは駄目です。当時も鉄製品は使われていましたが実際には難しい。
ところが、西山丘陵は凝灰岩質の山肌ですから意外と容易に穴が掘れるということで主体的に集まったということはあるだろうと思います。
なお、大元は九州の方で、古墳もそうですが、さらに総元は朝鮮半島の方と考えられています。

古墳と横穴墓のつながりは?

今でこそ太平洋側が交通の中心みたいなイメージですが、古墳時代も古代そして中世も日本海が中心でした。船の交易では主要な物資を運ぶことになりそれに伴って人も移動します。人が移住すると、元の地での風習みたいな、例えばお墓の形式のようなことも流れてくる。横穴墓もそうです。
日本海を中心とする結びつきは、今とは比較にならないほど太いパイプが存在していたわけです。
0914_005.jpg左:江道横穴墓群第23号墓(高岡市教育委員会文化財課提供)/ 右:同墓木棺配置推定図(1/30)『ふくおかの飛鳥時代を考える』(福岡町教育委員会 2005)p85よりお墓はモニュメントですから、自分が亡くなった後も権威は維持されているということを見せるための仕掛けなわけです。そこにどれだけの労力を費やすことができるかが、権力の大きさみたいなことになってきます。
前方後円墳でも一から土を盛っていくのは、相当な土を運んでくる労力が必要ですし、規模が大きくなればなるほど、それだけの権力を持つ大王、天皇とかになっていく。
それが小さくなっていくと、今度はお墓のタイプで権力構造が分かれたりするのです。氷見の柳田布尾山古墳(やないだぬのおやまこふん)という前方後方墳、四角を二つ重ねたの形ですが、あれが一般的に言われているのは、その地方地方の在地の大豪族の方のお墓なんです。しかし中央から来るような、今で言う官僚みたいな人が来た時には前方後円墳型のものを作る。中央集権のところの仲間になると前方後方墳じゃなくて前方後円墳を作らせてあげるとか、そういう力関係が反映されていく。
そういうのがあるのですが、時代が下るとどうなるかというと、一般化していく。昔は一握りの人だけのものだったのがだんだん私も私もと作っていく歴史がある。
その流れに横穴墓はのっかってくるわけです。従来の考え方でいくと、今で言う自治会長さんクラスの方がお墓を作って、それが横穴墓で、それが代替わりごとに、おじいちゃんが死んだらそこに埋葬して、息子が死んだらそこに入れて、孫が死んだら入れてというように代々作るお墓、家族墓みたいな、そういういう感じで横穴墓が作られてきたのです。


  一つのお墓に、一族の墓?

頭椎柄頭(形態)a.jpg銀象嵌頭椎柄頭(画像:高岡市教育委員会文化財課提供)イメージとしては今のお墓に近いですね。一つの横穴墓の墓に10何体も遺骸というか人骨が入っていたりします。
発掘状況をよく見ると、一人が死んだら、それ以前の埋葬者の骨を奥の方へ片付けて、今回死んだ方を前に置いて、そういう片付け行為の跡が出てきているんです。本当に一族の墓なんですね。今の墓とあまり変わらないイメージです。
ただ副葬品によって、確かに身分がそれほど高くないという方もありますが、一つのポイントは県指定史跡の城ヶ平(じょうがひら)の横穴墓でして、そこから出てきたものに頭椎柄頭(かぶつちのつかがしら)というのがあります。
これは、柄(つか)の下の方に頭があるものです。全国でも出土例が限られていて、富山県でもここと富山市の番神山古墳、呉羽の方で出たものと2つがあったのですが、後者は戦争で焼失したため、県内では城ヶ平の横穴墓だけになっています。
通常なら古墳で出て然るべきものが横穴墓から出てきたわけです。やはり古墳と見なしても良いようなランクの人が埋葬されている例もあるというのが最近の新しい見解です。


銀象嵌頭椎柄頭については、こちらにも掲載があります。

……「『西山歴史街道』は自然と歴史の宝庫です(第2回)」に続く予定です。

銀象嵌頭椎柄頭は 2010/6/8~ 2010/12/12 の期間、東京国立博物館の考古展示室で展示しているようです。「地方豪族の台頭  古墳時代IV」をご覧下さい。

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