自然と歴史の宝庫『西山歴史街道』p1


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0914_003a.jpg画像出典: 「富山福岡西山丘陵整備基本構想」(福岡町教育委員会 平成17年) 左上 p3、下 p27より / 右上 高岡市教育委員会文化財課提供

『西山歴史街道』は自然と歴史の宝庫です(第1回)p1

歴史探訪部会のホームページ開設記念として、高岡市教育委員会文化財課主任の栗山雅夫さんに、「西山歴史街道」についてビデオインタビューを行いました(ビデオ収録では「高岡を記録する会」の協力を得た)。お話の概要を2回ないし3回に分けてお伝えします。(本特集のための文章化(編集)は伊藤 博が担当。なおビデオの公開については改めてご案内いたします。)

西山歴史街道の「西山」とは?

656_2403-000045;29a.jpgインタビューに答える栗山雅夫氏もともとこの「構想」(「富山福岡西山丘陵整備基本構想」(福岡町教育委員会 平成17年))は旧福岡町で作られたものなのですが、福岡の町の平野に住んでいる人たちから見ると、山が西の山手に見えるので「西山」と呼んでいました。高岡の人たちはあまり西山という呼び方をしないと聞いたこともありますが、地理的に西側にある山裾ということで西山丘陵と呼んでいますね。


西山は文化財の宝庫

0914-010_042.jpg下向田古墳群(「富山福岡西山丘陵整備基本構想」(福岡町教育委員会 平成17年)p42)そういうところに文化財が、遺跡も含めたくさんあるんです。古代の北陸道、つまり伏木の越中国府へ通じる道があったためで、その沿道沿いに、古い集落の跡だとか、今は田んぼの下なわけですが、それが遺跡という形で残っているわけです。
また丘陵の高台へ行くと、昔の人のお墓、古墳ですね。それが、点在するというよりも密集している、そのようなイメージです。


古代までさかのぼる歴史街道

0914-010_043.jpg鴨城跡(「富山福岡西山丘陵整備基本構想」(福岡町教育委員会 平成17年)p43)現代から遡っていくと、近世の高岡城下町を元に発展した高岡の町がある。中世ではどこが中心かと言うと、一つは二上山の後ろにある守山城、そこが一つの拠点です。もう一つは、福岡町で言うと、木舟城(きぶね)という中世の城ですね。
もう一つ遡ると、古代の北陸道ですね。今の西山歴史街道の時代の原点になるところです。そのあたりでは、延喜式内社の浅井神社など古い由緒を持つ神社仏閣がたくさんあるんです。
もっと遡ると、縄文時代の前期ですから6千年前とか、それくらいまで遡れるような遺跡が山裾の間にあったり、またさらに、旧石器時代、1万年以上前にさかのぼる旧石器が見つかるようなところが山の奥の方にあります。
ということで、今私たちが住んでいる高岡の街中から見れば、そこはまさに原点ということになります。それが西山丘陵沿いなのです。


里山は日本の原風景

0914-010_003.jpg西山丘陵と田園(「富山福岡西山丘陵整備基本構想」(福岡町教育委員会 平成17年)p3)そういうところは景観としても重要で、いわば日本の原風景に結びつくわけです。それはこのあたりの特徴的な里山、つまり集落があって、その後ろに畑をもっている。特にこのあたり菅笠(すげがさ)の産地になっていて、菅(すげ)の田んぼを作ったりだとか、谷あいから清水が流れてくるとかいうふうなところで、それは住みよい場所であり、生活のしやすい場所というふうなことが一つの大きな特徴になっているわけです。


大昔から住みよい場所だった?

0914-010_026.jpg元取山から見た旧福岡町(「富山福岡西山丘陵整備基本構想」(福岡町教育委員会 平成17年)p26)平野部には小矢部川や庄川があり、そうした大きな河川の氾濫をどう抑えるかが重要な課題でした。戦後間もない頃沼田(ぬまだ)のような状態だったり、あまり水を抑えることができないという歴史があったわけです。そこで人は高台の方に住むことになります。高台で手っ取り早く確保できるところが丘陵の山裾だったのです。
特に西山丘陵は標高がだいたい200mか300mくらいまでの低い山ばかりですから、そこに上がれば山城としても使えるし、見晴らしもいい、水もつかないし(洪水の被害にも遭わない)、秋には木の実が採れたり、春には山菜が採れたりと豊かな場所なわけです。
わざわざ、今で言う平野の方の、水がいつ襲ってくるか分からないところに住むよりよほど便利がいい。
そこで生活基盤となるのが古代の北陸道です。越中の国府に繋がるそれは、昔の高速道路というようなもの。そういう道が通っているのでやはり集落もそこに沿って発展していくわけです。


古代の北陸道とは?

0914-010_016a.jpg旧福岡町周辺を通っていた街道(「富山福岡西山丘陵整備基本構想」(福岡町教育委員会 平成17年)p16)
もともと道に類するものはあったのだろうと思います。それが大和朝廷とか、古代の中央集権国家とかに変わり全国的な道が整備される、その目標地の一つが越中の国府。越中の国府は今の伏木の勝興寺と推定されています。
そこまで道をどう通していくか、倶利伽羅峠を越えて蓮沼の方に降りてきて、そこから一番最短距離で、維持もしやすく、直線的に行けるところとなると、この西山丘陵沿いを一気に通すということになります。
古代の道路というと、細くて曲がりくねっているように思われるかもしれませんが、国家を上げての道路造りです。直線的な、今のような道路のイメージになります。それが丘陵の中に跡を残していたりするんです。道路も側溝も、点々とですが今も見ることができます。広さ(幅)はこのあたりでは6mくらいですね。


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