瑞 龍 寺 は も と は 法 円 寺 で あ っ た
瑞龍寺はもとは法円寺だった。
法円寺のルーツをたどっていくと
前田利家が越前の府中城主であった頃からのかかわり、変遷の歴史が見えてきます
越中には法円寺が2つあったという話
 前田利家・利長は、城を替わるたびに、その城の近くに宝(法)円寺を建ててていきます。
 その1つは富山にあった法円寺で、二代藩主前田利長が 藩祖前田利家公にならい富山城の近くに法円寺を建立しました。
富山の法円寺は、富山市旅篭町に所在していたと言わ
れますが、現在は存在したあとがわからなくなっています。

 あとの1つは、瑞龍寺の前身が高岡の法円寺ということです。 利長が高岡城にいた1613年に高岡の法円寺は開山しました。その翌年、利長は高岡城で亡くなり、高岡法円寺で葬儀が執り行われます。
のちに 
三代藩主利常が利長の供養のため、この地に伽藍を建て、高岡法円寺と合併して瑞龍寺としました。
そのため富山そして高岡と、越中には法円寺が2つありました。
前田利家と宝円寺
◎ 越前 宝円寺について
 前田利家と宝円寺のかかわりは、利家が府中33千石の大名であった頃、城の近くの高瀬村にあった宝円寺の禅僧、大透圭徐と出合った事から始まります。 利家は大透圭徐と同じ尾張の出身であったことから、大いに親交を深め大透圭徐に帰依するようになりました。 
利家は出身地の荒子から、両親の位牌を取り寄せ、越前の宝円寺に移し、菩提寺としました。
七尾の宝円寺
◎ 七尾 宝円寺について
 天正九年(1581年)利家は織田信長から、能登一国23万石の支配を命じられ、能登七尾に移ります。 その時一寺を建て、大透圭徐を招き利家の両親の位牌を越前から持参させ、七尾の宝円寺とし菩提寺とした。
 のちに 七尾の宝円寺は長齢寺と改称します。 
当時 長齢寺は大伽藍でしたが 後に山門を残して全焼しました。 仮寺として、利家の父母の墓地の横に建てられているのが、現在の長齢寺です。
金沢の宝円寺
◎金沢 宝円寺について
 1583年、利家は賤ヶ岳の戦いにより、豊臣秀吉から北加賀(石川・河北)二郡を加増され、居城を七尾から金沢に移します。
 兼六園の東側に金沢の宝円寺を建立し、七尾から大透和尚を呼び寄せ開山しました。
 
天正十一年(1583年)から文禄三年(1594年)まで七尾と金沢に宝円寺が2つありました。 以降
金沢の宝円寺を本寺とし
 1594年 大透和尚は金沢の宝円寺を弟子の象山徐芸に譲り、七尾の宝円寺に隠居しました
野田の宝円寺
金沢 野田の宝円寺について
 1599年 利家が大阪で亡くなると、二代藩主利長は菩提寺の金沢宝円寺にて、金沢宝円寺二世象山和尚を導師とし葬儀を執り行いました。 
 
 利家の遺言により、亡骸は金沢南西の地 野田山に葬られます。
 利長は この墓地の管理寺院として野田山の麓に一寺を建て 野田の宝円寺としました。
 のちに 桃雲寺と改称され、七堂伽藍の大伽藍を誇りましたが、 1616年 焼失、しかし 芳春院がただちに再建しました。
 しかし 明治の火災により規模は大幅に縮小され、敷地も十分の一の790坪となっているのが現在の桃雲寺です。
 
 1605年前田利長は 利常に三代藩主の座を譲り、晩年を富山城で過ごした。
利長は 藩祖利家公にならい城の近くに富山の法円寺を建立し、金沢の宝円寺3世広山恕陽を金沢から招き、富山の法円寺を開きました。しかし現在は痕跡不明となっています。

1609年 富山城が焼失し 利長は関野の地に高岡城を築き、入城しました。
1613年 利長は 藩祖利家の法要を執り行うため 利家公や義父の織田信長公などの御霊や、廟を建て、廟守の寺として高岡の法円寺を開山した。
翌年  1614年 利長は高岡城でなくなり、・・・・・高岡の法円寺にて葬儀が執り行われました。利長の遺言により位牌は高岡法円寺に安置された。
その後 利常は利長の大供養のため、高岡の地に大伽藍を建てることを決意し、高岡の法円寺を大々的に改築、規模を拡大して
1663年 利長五十回忌に瑞龍寺を完成させたのです。
瑞龍寺の完成