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二上山総合調査研究会会長   太田 久夫さん
『二上山と文学』講演録

 ご紹介いただきました太田です。私たちは、さっきの挨拶の中でも「ふたがみさん」と言っておりましたが、「ふたがみさん」と言うよりも、万葉集には、そこに書いてありますように「ふたがみやま」というふうに書いてあります。その「ふたがみやま」も、皆さん方は「二上山と文学」と言えば、伏木に万葉歴史館もありまして、あそこの研究員の方が市内でいろんな講座などを開いておられまして、「二上山と文学」と言えば「万葉集」というふうに思っておられる方がたくさんあるのではないかと思いますが、今日は万葉集以外にもいろんな歌集とか歌合せにも歌われているというようなことをお話し、それから歌だけでなく、俳句あるいは紀行文なんかにも現れているというようなことを、ちょっとお話しようかなと思っております。

 まず、万葉集ですけれども、今言いましたように、万葉集には万葉仮名で「ふたがみやま」と書いてあります。万葉仮名というのは、皆さんご承知のように、漢字には漢音と訓読みの音があります。こういうものを組み合わせて表記するのは、日本語表記するのが、表音文字と言いますか、そして、それが万葉集に非常に多いので「万葉仮名」と言っておるわけですが。まず最初に「ふたがみやま」を「敷く」いう字に「多い」「我」「美しい」「夜」の「麻」ですね。「敷多我美夜麻」これは万葉集の17の3955番で、どういう歌かと言いますと、ま、歌も書いておけばよかったんですが、多分皆さん方、万葉歴史館、さきほど言いましたように、万葉歴史館の研究員の方々の講座を聞かれたり、あるいはまた朗唱の会の時に朗唱するのに勉強したという方もおられるかと思って、万葉集については歌を省略したんですが、この17の3955番は、「奴婆多麻乃 欲波布氣奴良之 多末久之氣 敷多我美夜麻尓 月加多夫伎奴」という史生土師宿禰道良の歌であります。「夜が更けたらしい 二上山に月も傾いた」というような意味合いかと思います。

 皆さん方、万葉集の講座をお聞きになったような方は、奈良にも同じ名前の山があるというふうに記憶していらっしゃる方もあるかもしれません。私も発表するにあたっていろいろ調べておりましたら、平凡社から全国各地の地名辞典が出ております。富山県の地名というのがあります。で、この総索引が出ているんですけども、富山県の場合は「ふたがみやま」の所に索引は配列してありました。それから、奈良県の場合は「にじょうざん」という所に配列してありました。そこを見ておりましたら、大阪にも「にじょうざん」というのがあるということが書いてありました。いちいち中身までは見なかったんですが、そういうようなことがあります。そうかと思うと、今日もちょっと下で調べておりましたら、奈良の山でも「ふたがみやま」と索引で配列したものがありました。これは後でちょっとふれると思いますけれども、「大歳時記」と言いまして、11年…いや18年ほど前ですか、集英社から出た、全国の歌枕とか俳句に出てくる名称など解説したものですけれども、それにはそういう具合に書いてありました。

 まあ、そういうことで、万葉集、万葉仮名で表記するのには、さっきのは「夜」の「麻」だったんですが、次は、2番目には、「敷多我美」まで同じですけれども、「やま」は「他人」の「他」に「麻」ですね。これは「二上山賦」と言いまして、

「伊美都河泊 伊由伎米具礼流 多麻久之氣 布多我美山者 波流波奈乃 佐家流左加利尓 安吉能葉乃 尓保敝流等伎尓 出立{底} 布里佐氣見礼婆 可牟加良夜 曽許婆多敷刀伎 夜麻可良夜 見我保之加良武 須賣可未能 須蘇未乃夜麻能 之夫多尓能 佐吉乃安里蘇尓 阿佐奈藝尓 餘須流之良奈美 由敷奈藝尓 美知久流之保能 伊夜麻之尓 多由流許登奈久 伊尓之敝由 伊麻乃乎都豆尓 可久之許曽 見流比登其等尓 加氣{底}之努波米」

 という、長歌ですね。これでは、今言いましたように、「ふたがみやま」は「他人」の「他」と「麻」というふうに、ちょうどはじめのほうに「伊美都河泊 伊由伎米具礼流 多麻久之氣 布多我美山者(射水川 い行き廻れる 玉くしげ 二上山は)」の、この「二上山」は、こういう万葉仮名で書いてあるということです。

 それから、3番目の「布」を書いてあるのは、「遊覧布勢水海賦」というので、これも長歌で、ずっと終わりのほうに

「布多我弥夜麻尓 波布都多能 由伎波和可礼受 安里我欲比 伊夜登之能波尓 於母布度知 可久思安蘇婆牟 異麻母見流其等」

という、終わりのほうに「ふたがみやま」と、これは万葉仮名で書くと、さっきの「敷く」の代わりに「布」を書いて、「多い」「我」「美しい」そして「やま」はさっきは「夜」の「麻」とか、「他」の「麻」とか書いてあったんですが、ここは「山」というふうに書いてあります。この巻17は、さっきの長歌は「二上山賦」これは「遊覧布勢水海賦」というので、長歌、万葉集の中で長歌を賦と言い、全部、富山県内の、立山賦だとか、そのようなものがありまして、全部巻17にありまして、賦というふうに言っております。この万葉、そして5つ、長歌を賦と呼んだのは5つありまして、富山市出身の山田孝雄博士が「万葉五賦」という本を書いておられますので、関心のある方は図書館なり万葉歴史館のほうで見ていただきたいなと思っております。

 それから5番目は、「蓋をする」の「蓋」ですね。「蓋上山」というので、これもかなり長いのですが、「詠霍公鳥并藤花一首」というので、「桃花 紅色尓 々保比多流 云々」とずっといって、真ん中のほうに

「真鏡 盖上山尓 許能久礼乃 繁谿邊乎 呼等"余"米」

 というふうに、詠んである歌があります。

 それから、我々が普通よく見る「二上山」と書いたのが、巻16の3882番。これはどういう歌かと言いますと、

「澁谿乃 二上山尓 鷲曽子産跡云 指羽尓毛 君之御為尓 鷲曽子生跡云」

 という歌であります。渋谷の二上山に鷲が子を産むそうな。指羽のようになり君のお役に立とうと、鷲が子を産むそうな」というような意味の歌であるかと思います。それから、巻17の3985番、さっきの「布」「多い」「我」「美しい」「山」これも、題にも「二上山」と、我々が今使っている「二上山」という表記で書いてあります。それから、17の4011番はちょっと省略いたしまして、最後はあの、「敷多我美能」能登の「能」の入った「他麻」4067番ですけども、

「敷多我美能 夜麻尓許母礼流 保等登藝須 伊麻母奈加奴香 伎美尓<伎>可勢牟」

という、遊行女婦土師の詠んだ歌ですが、「二上の山にひそんでいるホトトギスよ、今すぐ鳴いておくれ、殿にお聞かせしよう」という歌であります。こういう具合に、万葉集の中では、ふたがみやまと、それも万葉仮名で表記すればいろいろあるということです。

 それから、さっき奈良にもあると言いましたが、奈良の二上山、にじょうざんは、男岳が515メートル、女岳が470、まあ、高岡の二上山よりもちょっと高いなという山であります。
それから次は、越中守頼家歌合。この頼家という人は頼光の息子でありますが、生没年はよくわからないんですが、平安時代の歌人です。この下に書いてありますように、「天喜元年八月 越中国名所為題之」というので、全部で12首、歌があります。春が2首、夏が2首、秋2首、冬2首、恋が2首、祝が2首、そしてここに最後の二上山を詠んだのを2首掲げておきましたけれども、これには祝2首、そこに書いてありますように、数字の「二」に神様の「神」、神山、「二神山」と書いてあります。後でふれることができるかどうかわかりませんけれども、宮崎県の熊本県寄りにも「二神山」というのがありまして、明治17年の地図を、宮崎県の明治17年の地図を見ておりましたら、この「二神山」と書いてありました。歌は、

「ふたかみのやまのふもとにとしへつつ君ちよませといのりをぞする」

 まあ、あの、この歌を見る限り、頼家は二上の麓に生活しておったのではないかなと思われますが。で、あの、長いこと生活しておって、上の人とか尊い人、あるいは仕えている人、一国の君主と言いますかね、長い年月、繁栄するようにという、そういう意味の、大意の歌であると思います。

 それから2首目は、

「きみがよはふたがみやまのみねにおふるみどりの松のおひかはるまで」

 まあ、松は常緑樹ですから、枯れることはないと思うんですけども、二上山の峰に生えている松が生い代わるまで、長い年月栄えてほしいなというような意味合いの歌であるかと思います。

 で、今言いましたように、越中の名所ということですが、どういう所を詠み込んであるかと言いますと、春では立島と鹿汲川、夏では影無しの水と櫛田の社、秋では三島と木の葉の里、木の葉の里はちょっとどこかわかりませんが、どこか南砺市の福野あたりではなかったかなと思いますが、はっきり書いたものはちょっと見当たらない。資料の上ではないのではないかなと思います。それから冬では渋谷の浦と石瀬わたり。恋は奈呉のつぎはしというふうな所を読み込んだ歌があります。

 それから3番目ですけれども、金葉和歌集、源俊頼が撰集しまして、初奏本は天治元年、1124年、この三奏本が大治2年。この間にもうひとつ、再奏本というのがあるんですが、撰んで出したところ、もうちょっと訂正したらいいというようなことで、三奏本で初めてOKが出たというような歌ですね。金葉集の、金葉和歌集の金は褒美のことば、葉はことのはの言い、優れた、巧みに美しく表現した言葉を集めた集というような意味合いの歌集の名前であります。それで、天治元年に白川法皇の院宣を奉じ、院宣というのは院の御所に奉仕し、書も司る職員、院司と言いますが、上皇、法皇の命を受けて出す公文書のことを院宣と言うんですが、こういうものを、出て、崇徳天皇の大治元年から2年の間に、3度にわたって、先ほど言いましたように、こういう歌を撰びましたと言って奏上したわけです。で、俊頼はもう平安時代の歌人でありまして、天喜3年から大治4年まで生きながらえて、生存しておった方ですが、堀川天皇に仕えておりまして、父が大宰府に赴任した時について行きました。これは1095年ですけども、嘉保2年という年です。父が亡くなった後、上京いたしまして官職に就いたわけですが、役人としてはあまり出世しなかったようであります。そして、この中に含まれているその歌、「夏月のこころをよめる 源親房」この源親房は、後醍醐天皇に仕えて信任が厚かったようでありますし、天皇の息子の世良親王の養育にあたりました。そして南朝を建てて、政治軍事の中心的な存在として活躍したと言われております。そしてまた、学者としても非常に優れていたと言われております。で、

「たまくしげふたかみやまのくもまよりいづれはあくる夏のよの月」

 まあ、あの、二上山の雲間より日が出れば、と言いますか、どう解釈したらいいんでしょうか。出れば、明ける。夏の夜の月。夏の夜の月が出れば日が明ける、という意味なんでしょうか。ちょっと、なんですけども。

 あ、それから、さっき奈良のほうにも二上山があると言いましたが、この、さっきの平安時代の歌には、二上を詠んだ歌がずいぶんたくさんあります。歌枕を研究した本を見ておりましたら、大体「玉くしげ」とあるのは越中の二上山と見てよいだろうというふうに書いてありました。ですから、これなんかも越中の二上山を詠んだ歌と見ていいと思います。それから、この平安時代以降に詠んだ二上山は、越中なのか奈良なのかよくわからないのが非常に多いということであります。ただし、今言いましたように、「玉くしげ」とあるのは越中の二上山と考えていいだろうと書いてある資料がありました。そういうわけで、後でまたふれると思いますが、この中、今日ここに掲げた中では、どうもこちらの方ではないようなものがひとつ、含まれております。

 それから「袖中抄」ですけども、これは顕昭という人が著したものですが、これは平安時代の科学書で、非常にたくさんの歌集だとか歌合せに見える歌のことば約300首を選び出して、それに具体的に証歌となる歌を掲げて注解したものだと言われております。ここでは文治元年に、1185年から2〜3年の間に、できたものでないかなと言われております。で、ここに掲げてある歌は、万葉集の1955番ですかね、

「ぬば玉の夜は更けぬらし玉くしげ二上山に月かたぶきぬ」

 いちばん最初に紹介した、万葉集の歌であります。この顕昭という人は、父親も母親もよくわかりません。どういう人なのか、どういう出自なのかは、よくわかりません。藤原顕輔(あきすけ)と言うんでしょうか、けんすけと言うんでしょうか、この人の養子となって、藤原一族の人々とともに、活発な歌人活動をしたということくらいしかわからない、ということであります。

 それから5番目の「新撰六帖題」これはあの、六帖題でちょっといろいろ調べておりましたら、正式の名称といいますか、これは「新撰和歌六帖」ということがわかりました。これ、ちょっと書き添えといていただければ、後でみなさん方、調べられる時にはわかりやすいのではないかなと思います。「新撰和歌六帖」で、題が「はこどり」資料によっては、この濁点、なくて、「はことり」としたものもあります。で、

「春されば友まとはせるはこ鳥のふた上山にあさなあさななく」

 春が過ぎて、友を惑わせるのははこ鳥で、二上山に毎朝まいあさ鳴く、というような歌かと思います。はこ鳥は郭公、いまで言えば郭公とも言うというふうに書いてありまして、貌鳥の異名であると。貌鳥というのは美しい鳥の総称だ、というふうな解説をした辞書もありました。この衣笠内大臣というのは、藤原家良のことでありまして、家、それからよしは優良の良です。家良でありまして、鎌倉時代前期の歌人で、お公家さんでした。大納言藤原忠良の次男でありまして、衣笠家を建てた人で、衣笠家の祖ということで、あの、衣笠内府とも言われておりました。天保2年、1214年から、約半世紀にわたって、いろんな歌合せとか百首歌に歌を出しております。そしてこの、ここには年号書きませんでしたけども、寛元2年、1244年−寛大の寛に、元旦の元です−寛元2年、1244年に、この新撰和歌六帖題の和歌を主宰いたしまして編んだのが…。そしてこれには、この家良と、先大納言為家、古城三位知家、知る家、それから前権太夫真実、真実の真と、実行するの実、それから右大臣光俊、光るの俊敏の俊、光俊の5人が、古今六帖の歌の題に基づいて、一人ずつ歌を詠んで、そして自分の歌を除いて点をつけるというようなことをやっておりました。そして今挙げた、1、2、3、4、5人で、紫とか黄色とか赤とか青とか黒の色をつけて、今風で言えば、審査するということをやっておりました。全部で527題ありまして、2,635首収められているということであります。この歌は、主宰者の衣笠内大臣藤原家良の詠んだ歌であります。

 それから6番目の「嘉元仙洞百首」これは、亀山院ほか17名、あ、27名の方が、百首を詠んだ…集めてある歌です。

「玉くしげ二がみ山の秋の夜は明るまで鳴さをしかの声」

秋の夜が明けるまで雄鹿が鳴いているという歌で、これは、詠んだ人が、ちょっと、調べてこなかったのですが、次の新後撰集の撰集資料にする参考資料として、後宇多院が命じられて撰ばれた歌集と言ってもいいかと思います。
次は、2枚目は裏に、皆さんの資料では裏にコピーしてあるかもしれませんが、夫木和歌、ここには夫木和歌集としてありますが、正しくは夫木和歌抄のようです。夫木和歌集とも言うと解説してある辞書もあります。この歌を見ていただきますと、「君が代は云々」というのは、先ほどの頼家歌合せのところで見た歌と同じです。これが夫木和歌抄というのは、以後の勅撰のため、この道に志あらん人のため、万葉集から当代まで多数の歌集を出典として、いろんなものから集めておるわけです。そして17,387首。36巻。そして596の題に分けてある歌集です。で、今日伝わらない歌集とか歌合わせなども残して、和歌史の上では非常に問題を含む歌集なんですけども。それからまた、さっき17,387首と申し上げましたが、1首を2か所に重出させたものなんかもありますので、精査すればもっと減るのかもしれませんが、一応、これだけの多くの歌が集めてあるということです。そしてこの藤原長清は、今の静岡県の勝間田の人でありまして、時宗に入門して、他阿上人のお弟子さんだったということです。歌は冷泉為相に学んだんですが、夢の中で大江匡房が「扶桑集と名づけたらいい」というふうに言ったんですが、為相は「扶桑は日本の国名であり憚り多いので、扶の字の旁と桑の木の木を取って、夫木和歌抄と名づけよう」と言った、という言い伝えがあります。
で、3首目の

「ふたかみのみねをやすらふほととぎすこころづくしのこえぞふりせぬ」

 というのは、これは藤原良実の、「光明峰寺入道摂政」という人の、これは藤原良実のことなんですけども、こういう歌が「洞院摂政家百首」の中に含まれております。で、それを取った歌なんですね。ま、そういうようなことで、夫木和歌集は、その中に二上山を詠んだ歌が3首あるということです。

 8番目は「続後拾遺和歌集」ですが、ま、こんなことをやっていったら、すぐ時間が来てしまいそうなので、急ぎますけれども、「続後拾遺和歌集」は後醍醐天皇の命により、二条為藤が撰集にあたりました。二条為藤は元亨3年に下命があって撰集にあたったわけですが、1年後には亡くなってしまったわけです。で、二条家の中では誰が後を継ぐかということで、問題になったようですけれども、二条為定という、為藤の甥があたることになりました。そして、「郭公あかずも有るかな玉くしげふたかみ山の夜半のひと声」という歌が、続後拾遺和歌集の中にあります。「ほととぎすも飽きないものかな。二上山で夜も鳴いている」というような意味合いの歌でしょうか。後醍醐天皇は鎌倉時代後期から南北朝時代の天皇で、南朝初代の天皇でもありますけども、政治の刷新に努めまして、富山県民にも名前が割合知られているといいますか、国泰寺の名前も確か後醍醐天皇が付けたものではなかったかなと思いますし、それから次に掲げる宗良親王は後醍醐天皇の皇子でありますし、二塚にある恒性皇子もまた後醍醐天皇の皇子だと言われております。ま、あの、この後醍醐天皇はこの歌集が成った時に、「数々に集むる玉の曇らねばこれもわが世の光とぞなる」と言って喜んでおりますが、さきほど言いましたように、二条家でちょっとごたごたがあったこともありまして、歌集自体としてはそんなに高く評価されていないような勅撰集になったわけです。

 9番目の宗良親王は後醍醐天皇の皇子でありまして、上牧野ですか、宗良親王の歌碑があります。二上山を詠んだ歌としては、

「玉くしげ二上山を見るたびにみやこのふじとおもひわびぬる」

 まあ、「二上山を見るごとに、都の富士と思って悩み暮らしている」というような意味の歌です。宗良親王には「李花集」だとか歌集なんかもあるんですが、歌碑にある歌も「李花集」には含まれていないので、本当に、誰かの代作ではないかというふうなことも言われておりますが、一応、さっき言いましたように、上牧野の歌碑には宗良親王の歌として4首、この歌も含めて4首、刻んであります。

 それから10番目は「金玉抄 山雲子」丸括弧して、坂内直頼の編集。天和3年の。これも、坂内直頼も出自が不明でありまして、どこの、今の、どこの出身かもわからないし、どうも代々、武芸道場でも開いていた家の生まれのようであると言われております。そして浪人となって京都に生活をしておったんですが、母を亡くしてからは出奔したということであります。それくらいしかわかっておりません。で、

「しぶたにや二上山の夕暮れに秋風吹きて鷲子生なり」

 二上山の夕暮れに秋風が吹いて、鷲が子を生むという、というような意味合いの歌ですね。

 次は「布勢湖八勝」これは勝興寺の19代闡郁の編集した中に先権中納言持豊、芝山持豊という人でありまして、これは権中納言芝山重豊のお子さんで、従三位、安永4年に従三位、文化6年には正二位、同11年には権大納言に昇進しております。国学に通じて、華道にも秀で、絵画も優れておったと言われております。本居宣長を畏敬して、本居宣長と親交を深めたということであります。

「世々をへてその名かゞやく玉くしげふたかみ山のうごきなき陰」

 これはあの、横には「布勢湖八勝」の原本のをコピーして、ちょっと貼り付けておきました。ま、そういうようなことで。これは何年か前に、中央図書館の、下の中央図書館で古書古文献資料として復刻したのを、今でも窓口にありますので、この二上山の他に八つの名勝と言いますか、七つの名勝、そういうものも含めてありますのでね、ご覧いただければありがたいなと思います。

 12番目は「名所今歌集」今というのは「こん」と読ませます。これは本居宣長なんですが、これはさっきちょっと言いましたように、どうもこちらの歌ではないようですから、詳しいことはやめましょう。で、あの、宣長は国学者としてよく知られておりますが、京都へ出て修行して、今の三重県の松坂出身ですが、松坂へ帰って、小児科医を開いておったこともあるようです。この歌の前後を見ますと、都を詠めるとか、天の香具山、飛鳥川、それから吉野、難波の堀江というふうにありますので、これはどうも奈良の二上を詠んだ歌ではないかなと思います。

 それから、次の「ふすしのや詠草 五十嵐篤好 文政3年 1820年」これはこの年だけに詠んだものではありませんで、最初の歌がこの年だということで。この「ふすしのや詠草」は全部で12冊あります。全部で5,683首ありますから、万葉集よりもたくさんの歌を一人で詠んだということになります。長歌が63首、文章も69編含まれているということです。皆さんの、お配りした資料には、たぶん、くずし字で入っていると思いますが、これは篤好の直筆ではなくて、誰かの写したもののようです。この「ふすしのや詠草」の中には、篤好自筆と思われるところもあることはあるんですが、これは誰か他の人が写したもののようです。

 「二上は−あの、これは「きり」と読んだほうがいいのかどうか、ちょっとわからなかったんですが。また読み違いしておったら教えていただきたいと思いますが−雰立こめてくれにけり今夜も独りわひつつやねん」

「二上に霧が立ちこめて、暮れた。今夜も独りわびしく寝ることであろう」というような歌ですね。
で、それから次は2首目。

「二上は霞うつめる夕なきに名湖の入江をかへる釣り舟」

「二上は霞に包まれて、夕凪に奈呉の入江に釣り舟が帰ってくる」という歌ですね。
それから文政5年には、

「二上の光台寺にあそびて紅葉のいたくうつろひたり」

 「山麓の光台寺に行ったところ、紅葉、もみじが非常に色づいておった」というような歌ですね。で、あの、だんだん時間がなくなりますから、ひょっとしたら紀行文にはふれられないかもしれませんが。
光台寺に遊んだ時に詠んだ歌が、

「かゝらんとおもひし事よあなにくのきのふの風よかへすかへすも」

 「思わぬことに出会ったことであるよ、昨日の風が、ああ、憎い、昨日の風はかえすがえすも憎いことであるよ」というふうな意味で、本当に紅葉を見に行ったので、前の日はそれこそ台風並みの風かなんかあったんでしょうね。紅葉が散ってしまったので、ああ、憎いというようなことを言っている、詠んだのではないかなと思います。

 篤好のこの「ふすしのや詠草」には、全部で、二上山を詠んだ歌が40首ほどありました。ここには3、4首しか考えてきませんでしたけども、たくさん二上を詠んでおります。

 あの、時間がないので先へ進みますけども、14番は「揖取魚彦家集 文政四年」

「越の中の国の二上山のもとにて
大和なる二上山の名たぐひに是や越へのはしき山の名」

 これはあの、「二上山のもとにて」という断りが書いてありますから、文政4年あるいは前の年にでも、この二上山の麓へ来て、思いを詠んだんでしょう。大和にある二上山と名が同じで…あ、はあ、わかりました。

 あの、まあ、そういうようなことです。それからあの、あと1分前ということですが、俳諧と紀行文とはふれることができませんでした。皆さんの案内には、4時終わりになっていますから、ほんの2、3分だけ延長させていただきたいなと思います。

 北枝は小松の人で、金沢へ移り住んでおられまして、芭蕉の弟子になった人です。尾崎康工という人は戸出の出身です。尾崎康工のところは、安永8(177)になっておりますが、1779。「9」を付け加えておいてください。露川は「北国曲」という句集に載っております。露川と燕説は一緒に越中のほうへ来て、詠んだ俳句です。麦浪と市仲はちょっとよくわかりませんが、延享3年の俳句のようです。市仲は高岡の元禄時代の俳人だということです。「玉ひろひ」は麦仙城烏岬という人で、安政3年。麦仙城烏岬は伊予の人です。安政3年にこういう句集を編みました。二上山というので、これは白黒でコピーしましたからわかりませんけれども、うっすらと色が付いております。

 時間が来ましたので、紀行文のほうは省略いたしますけど、あの、「一宮巡詣記」の4番のほうは、橘三喜はいまの長崎県の出身で、全国の一宮をまわった人です。この、後ろから2行目に書いてありますように、「是日向国二上峰を移せる社也、所の者大和国当麻二上の峰を移すと云者あるは非也」宮崎県の高千穂町と五ヶ瀬町の境界に二上山、二上神社が鎮座しておりました。この日向風土記には「二上峰」と記してありまして、さきほどもちょっと言いましたように、明治17年の宮崎県の地図では「二神山」となっております。やっぱり男岳と女岳がありまして、男岳は1,050メートル、北東の女岳は989.1メートルということです。

 もうちょっとだけなんしますと、最後には五十嵐篤好の「二上紀行」というのがあると思います。文政11年で、これは4月10日におじさんと一緒にホトトギスの鳴き声を聞きに行こうと、行ったんですけども、雨が降っとったけど、こういう時こそ鳴くんだというので出かけたというようなことで、山の中に烏が巣を作っていたとか、それから、地元の人はどこから来たのか聞かれたとかいうようなことなんかも書いてあります。

 あの、私も読解力が十分でないので、十分読みこなせませんでしたが、いずれ二上山研究にでも紹介したいと思います。以上で終わります。どうも失礼しました。

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