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「守山ふもと 古国府城でわかってきたこと」 

前高岡市文化財審議会委員   古岡 英明さん 

【発表要旨】

 天正12年、佐々成政は勝興寺の還住を許し、守山麓に坊地を与えた。守山城主神保氏張は成政の意を受け、勝興寺与力の寺庵を督励し、自らが支配していた府の分一円(古国府)を勝興寺に寄進し、寺内となった同地の住民にさまざまな保護を与えた。成政や氏張の意図は勝興寺とその与力寺庵ならびにその寺庵の門徒衆の同心を求めたからであろう。その核となる勝興寺に与えた古国府という地は成政、氏張にどのような役割を果たす土地だったのだろうか。

 古国府には勝興寺が寺内町をもつ伽藍をつくる前に古国府城と称する城郭があったと言われている。けれども、その城はいつ誰によって築かれたのか明らかになっていない。またその城の規模や形も明らかでない。現在勝興寺の伽藍が配置されている本堂、本坊を含む旧古国府字大伴の地は湟塁に囲まれ、城郭の形態を残している。この湟塁を古国府城の遺構とする説もある。また古国府城とは、現在の勝興寺境内を中核地点とし、府の分一円、現在の古国府、古府、一宮の一部を含む一帯を城域とする巨大なものであったとする説もある。

 これらの説を検証するため、伏木の古府、古国府、一宮において城郭遺構とその残存部分の存在を現状ならびに伝承を調べたところ、調査地域に十ヶ所あまりの単郭遺構の存在が確認された。旧状を確実に留める湟塁はほとんどないが、残された部分は何とか保存し、失われた部分もせめて図面で復原したいものである。勝興寺現境内に遺存する湟塁も破壊と崩壊が著しく速やかな旧形態回復が望まれる。この湟塁は現在の本堂が建立された寛政7年を半世紀遡る頃から城郭的役割を放棄し、また現本堂建立にあたり、二重であった湟塁のうち一重を埋めている。それ以前の形状の復原を望むものである。

 境内湟塁を取巻く広い外城域に文化9年の古府村絵図面上で前館、後館と称する四周完結単郭二か所の存在を見ることができる。ところが、その後勝興寺22世住職となった廣済の生家、金沢の旧前田土佐守家を調査した際、伏木地内略絵図が存在し(現在、前田土佐守資料館蔵)、その中に古府村絵図中の前館に「字寺島丑之助館」、後館に「旧斉藤甚助館」とあることがわかり、二か所の単郭遺構の住人名と考えられる。この二人は兄弟で斉藤甚助は小島甚助、槻尾甚助と書かれた資料も存在する。兄弟は初め土豪の将として一向一揆勢を率いて越後上杉氏と戦い、天正5年(1577)には、神保氏張(守山)石黒左近(木舟)、寺崎民部(願海寺)、瑞泉寺、勝興寺とともに、上杉軍中の将となっている。天正11年には槻尾甚助が佐々成政から1万俵(5000石)の知行を受けており、天正12年には佐々成政方の部将として兄弟は末森城攻めに大活躍し、前田方の文書には最も注意すべき猛将として、しばしばその名が記されている。天正15年佐々成政の肥後転封後、兄弟ともに前田利勝(利長)から2000石の知行を受けている。以上のことから古国府の地は佐々、神保にとり最重要地であったことが窺われる。