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 地学班 邑本 順亮

第3回 二上山探究講座資料
与茂九郎池について

与茂九郎池について 太田郷土誌発刊委員会、昭和48年10月発行の『太田−歴史と風土−』(p.140〜141)には次のように記述されている。

 大師ヶ岳のふもと、太田校下のほぼ中心にあるのが与茂九郎池、通称ヨモクロである。正式な名前は与茂九郎池一号、与茂九郎池二号というふうに五号まである。昭和32年までは、池は四つしかなかった。俗に言う与茂九郎池(一号のこと)、中堤([なかつつみ]二号のこと)、大平([オオヘイ]三号のこと)、杉野(四号のこと)である。もっとも新しい与茂九郎池五号も、これらの四つの俗称にならって、新規とよばれている。

 与茂九郎池はいつ作られたのかは不明である。古老の話によると、どんなに新しくでも最低150年以上前、ことによると江戸時代以前に作られたものであるかも知れないということである。与茂九郎池は誰が作ったのかということも不明である。与茂九郎という人(太田の人であるかどうかはわからない)が中心になって作ったという言い伝えもあるが、はっきりしたことはわかっていない。

 また与茂九郎池には守り神がいる。むかし土地の人が信州の戸隠(とがくし)大明神の池へ水ごいにいった時、戸隠山の池の神であった弁天様をゆずりうけてきた。それを持ち帰り、お堂を作り、池の守り神にしたのである。その弁天様は、前は与茂九郎池一号の堤防の上にあったが、今は有磯神社にある。

 5つの池の周辺は約3.9キロメートルで、うち一番大きいのは一号池である。ふつうは冬の間の二カ月間ぐらいで水量がいっぱいになる。太田地区のおよそ1,100反(109ヘクタール)の田をうるおしている。長い年月の間に、この太田でも何回か干ばつや大水の被害にあった。古老の記憶によれば、もっともひどかったのは大正10年の干ばつである。どの農家もみんな、打ち込みポンプで水をくみあげ田へひいたが、稲はその水がながれてきたところだけ穂が出、あとは全部やられてしまったという。今年(昭和48年)の干ばつはそれに次ぐものである。与茂九郎池は8月13日に完全に干しあがってしまって、耕地整理のあとに作られてという地下ポンプもからからになった。

 大水では、明治41年6月、一号池の堤防に穴があいた時のことが記録に残っている。
 現在では、ため池管理委員11名が、この与茂九郎池のほか赤尾谷内、熊谷、猿谷等という太田地区にあるため池のすべてを管理している。


※※※『伏木の民話(むかしあったとさ)』[伏木地区小・中生徒指導連絡会編昭和58年7月刊]によれば、戸隠神社の池の神様を分神として願い受けてきた水神様は木造の弁天様で、もとは極彩色と思われ、大変姿美しく蛇が巻きついている。そのためかこの池に竜が住みついているという言い伝えがある。現在はこの水神様は有磯神社に合祀され、毎年6月26日、虫送りとともにお祭りしている、という。
 また、この地区にため池が増やされたのは大正10年のひどい旱魃(かんばつ)のあとだという。※※※