パネルディスカッション 「二上山を大いに語る」

[パネリスト]
 菊川  茂氏 (立山カルデラ砂防博物館)
 大野  豊氏 (日本鱗翅(りんし)学会員)
 樽谷 雅好氏 (高岡市児童文化協会副会長)
 晒谷 和子氏 (高岡市立中央図書館)
[コーディネーター]
 中葉 博文氏 (富山県立山博物館)
[アドバイザー]
 古岡 英明氏 (基調講演講師)

富山県立山博物館
中葉 博文(なかば ひろふみ)氏
●PROFILE
昭和32 年生まれ。専門は地名伝承学。学生時代から地名研究に携わり、富山県立二上工業高校教諭時代には同校の二上山研究会の顧問として、幅広い活動を展開。二上山総合調査研究会会員。

■中葉
 皆さん、こんにちは、今日はコーディネーターということで皆さんと対話ができることは、僕自身大変うれしく思っております。会場の中を見ますと、二上工業高校時代に生徒と一緒にここを毎日のように歩いていたときに、お世話になった方々のお顔も拝見でき、本当に懐かしい思いがします。
 今日のテーマですが、「二上山を大いに語る」ということで、これからパネリストの方、そしてアドバイザーとして先程基調講演をなさった古岡先生と、二上山についてお話をしていきたいと思います。今日は先生方が5 人いらっしゃるのですが、先程、司会の方がご紹介なさいましたように、各分野の専門の先生方です。あとで専門の先生の方から、お一人10 分間位で、自分の今研究なさっていること、そして、二上山にはこんなに面白いことがある、まだだれも調べていないことがこんなにもあるということを、一人一人の先生方に語っていただこうと思います。そして、語っていただいた後に、今度は会場の皆さんの方から質問をいただき、この会を進めていきたいと思います。
 先程、古岡先生もおっしゃっていましたように、二上山は本当にいろいろな魅力がある山です。今回このように二上山総合調査研究会発足ということになったわけですが、今後10年間にわたり二上山を調査研究するという本当に壮大な計画です。10 年間という長い期間でやるところは県内でも最近、他でも例がありますが、ほとんどは有識者、研究者だけの先生方で進められているのが現状だと思います。それが高岡市は、市民の皆さんを巻き込んで、一緒に考えて、そしてこの二上山というものを、後世まで小さい子どもたちに素晴らしい山であることを伝えていこう、そしてこの二上山を大事にして、高岡市の未来をも考えていこうという壮大な計画で、市民が参加できるというのは、他にはない試みだと思います。
 私も二上工業高校に7 年位勤務していましたが、まだまだ二上山の研究したいことが沢山ありました。私は地名の研究をやっていまして、そのときにいろいろな方にお聞きしたのですが、まだ現地をしっかり押さえていないことがあるし、まだまだ地名の中から得ることがあり、地元に住んでいる皆さんの力がなければ解き明かすことができません。二上山の地名を後世に残すことがすごく大事なことだと思うのです。皆さんにこれからお力を借りて、高校生、中学生たちと一緒に研究ができたらなと思っています。少し私の話が長くなりましたが、これから順番にパネリストの先生方にご発表をいただいて、先程言いましたように、皆さんの方から質問をいただいて、会を進めていきたいと思います。それではまず始めに、地形と地質がご専門の立山カルデラ砂防博物館の菊川先生の方から、二上山について少しお話をしていただこうと思います。それでは菊川先生よろしくお願いします。

立山カルデラ砂防博物館
菊川 茂(きくかわ しげる)氏
●PROFILE
昭和11 年生まれ。富山県立富山高校教諭、富山県総合教育センター科学教育部長などを歴任。現在は、自然保護協会ナチュラリスト委員長、富山地学会幹事などをつとめ、地形・地質の専門家として活躍中。二上山総合調査研究会会員。

■菊川
 ご紹介いただきました菊川です。地形・地質ということで、非常になじみの薄いというか、文字どおり泥臭いようなことに興味を持って勉強しております。そういう視点から今日はお話しをさせていただければと思っております。
 私が生まれたのは、五箇山へ行く入口の城端というところです。そこからは常に二上山が足下というと言葉が悪いのですが、下の方に見える生活をしていましたので、高岡へ移り住んで来てからも、二上山に対しては深い関心を抱いてきました。このたび、市民の皆さんと一緒に調査、研究をさせていただける機会を与えていただき、本当に感謝しています。
 まず、地形を表している地図に関してですが、2万5000分の1の国土地理院発行のものが、基本図になっています。ご存じのように、二上山というのは273 (フタカミ)メートルということで長年親しんできましたが、現在は274 メートルになっています。以前の2万5000分の1地形図などには、実は273 という数字は記入されていませんでしたが、現在出版されています国土地理院の地図には、274 ときちんと記されています。
 今から10 年ほど前の平成3年、日本の山の標高をはっきりさせたいとの動きが強くなり綿密に調査されました。それまでは、山というと高さを思うのですが、正しく記されていないものがありました。例えば立山にしましても、2992メートルという数字がよく出ていました。これは雄山山頂の峰本社のすぐ近くに三角点がありましたので、その三角点の標高だったのです。山の高さ、すなわち標高は三角点と考えることが多く、山頂近くの三角点の標高を山の高さとして表すことがよくありました。立山の場合、宮司さんが熱心に、「雄山は3000 メートルを越しているはずだ」と国土地理院にかけあい山頂まで測量され3003メートルという数字が出てきたのです。
 このように、高さということに対して非常にシビアになるというか、もっと明確にしなければならないという考えが起こってまいり平成3年に、全国の山の標高が、かなり詳しく、きちんと調べられたわけです。多くは2000 メートル以上の高山が対象でしたが、二上山のように200メートル級の山の標高が調べられたということは、それだけでも日本的にも関心が持たれていたのではないかと思います。
 次に、二上山の地形についてみてみましょう。石川県境の山系から二上山にかけてだんだん低くなってきて、二上山でぴょんと上がり、そのまま富山湾へ落ち込んでいくという独特の形をしています。海老坂峠に大きな地層の食い違い、断層が走っているわけです。これを海老坂断層と言いますが、この低くなったところを、先程基調講演で話されたように道が通り、国道160 号線となったわけです。
 それから、もう1 つは、小矢部川が二上山の麓で蛇行していますが、これがまた大きな特徴ではないかと思います。富山県の川は、ご存じのように急流河川です。一気に山から富山湾へ流れ込む、直線の川が多いのです。それに対して、二上山付近で小矢部川が非常に曲がりくねっているという地形をしています。
 また、伏木の台地が非常に平らになっています。伏木だけでなく二上山の周りを取り囲むように一段上がったところに平坦な面があります。これを段丘(だんきゅう)と言いますが、これも二上山の特徴ではないかと思います。そこへ深い谷が入り込んでいるのも特色です。
 さて、山がどのようにしてできてきたかと考えるには、まず、地層を調べるわけです。地層の中から貝などの化石が出てきます。そういうものを研究しながら、この地層はどのようにしてできたか、調べるのが地質学の基本になっています。
 このような調査をしてまとめられたのが地質図です。一般の方にはなじみのないもので申し訳ないのですが、二上山もいろいろな時代の地層からできているわけです。一般に下の方ほど古く、だんだん上へ行くほど新しい時代に形成されたものです。
 二上山がどのような生い立ちをしてきたか、どのような地層が分布しているかは、今までも少しずつ調べられてきています。京都大学の池辺先生などを中心としたグループの調査(1951年)、地質調査所などで調査(1963年)され地質図が発表されてきています。それらの一つである二上山周辺地質図(図1 、松島洋氏作成、氷見市史9 資料編7 自然環境より転載)を見てください。

図1.二上山周辺地質図(氷見市史編さん委員会、1999 年)
 この図にある地層はいつ頃のものかというと、一番古いものが約1500 万年ぐらい前のもので、以降現在まで順次形成されてきています。
 氷河時代には南極やアルプスだけでなく陸上に氷河がたくさんできます。その分だけ海の水が減り、海面が下がっていきます。反対に、温暖化すると南極の氷などが溶け水が海へ流れ込んできますので、海面が高くなり、海水が陸地まで押し寄せ、海岸地帯にいる人々の生活の場が海の下になってしまうという話が出たりします。海面が上がったり下がったりする、そういう状況でできた地層が窪層や伏木礫層です。
 この図(図2 )は、二上山の万葉植物園の前にあるパネルに描いてあるもので、私が原図を20年以上前に記させてもらったものです。実際のパネルには、横の方に説明の文章も書いてありますので、機会がありましたら見ていただきたいと思います。二上山が、どのようにしてできてきたかを示しています。

図2.
二上山の生いたち
 二上山はまず海の中で、土砂が堆積し、それが隆起してきました。二上山の真ん中を1 つの軸としてだんだんせり上がってきたものです。海の中で堆積したものが陸上に顔を出すと、とたんに削られはじめます。また、二上山の周りに段丘が見られます。隆起し傾いた地層に対して水平な段丘ができてきました。長い歴史を持って二上山はできてきたわけです。このような大筋につきましては、今後ともに大変わりはしないだろうと思いますが、いつ頃から堆積がはじまり、浅い、深いなど、どういう海でできてきたか、それから隆起の様子はどのようであったか、それからその周りに段丘というか、台地がありますが、これはどのようにしてできてきたかということについて、皆さんと一緒に研究したいと思っております。
 そのやり方としては、地層の中に含まれている化石や地層の連続性、どのような地層が並んでいるかということを中心に調べて、生い立ちについてもっと詳しく調べていきたいと思っています。それからどういうふうにして侵食されてきたかも調べる必要があります。
 それと、大きく抜けているのが気象のことです。気象については今回ご報告できなかったのですが、実はあまり調べられていません。先程の基調講演でも、二上山周辺の積雪の違いによる影響についてお話がありました。やはりあれだけの山がありますと、山の両側ではやはり気象の違いがあるだろうと考えられます。気象を調べるというのは、機械でやればよいと簡単に考えられやすいのですが、ことに雪などにつきましては、多くの方々の協力を得て細かく調べる必要があります。こちらでは全然降らなかったけど、山の向こう側では降り積ったなどその状況を一緒に調べていきたいものだと考えております。以上です。ありがとうございました。

■中葉
 菊川先生、どうもありがとうございました。地形と地質の面から、少し先生の方から話をしていただきました。今度は昆虫がご専門の大野先生の方から、二上山にはどういうような昆虫がいて、どういうものかということを少しお話ししていただこうと思います。では先生、お願いします。

日本鱗翅学会員
大野 豊(おおの ゆたか)氏
●PROFILE
昭和14 年生まれ。昭和27 年から二上山で昆虫採集を始め、以来現在まで県内の鱗翅目(蝶、蛾類)を中心とした分類、生態を研究。富山県下のギフチョウの生態や高山蝶について、幅広く研究を続けている。富山県高山蝶保護協会事務局長などをつとめる。二上山総合調査研究会会員。

■大野
 大野です。皆さんこんにちは。今日のプログラムに私の肩書の名前が日本鱗翅学会員となっていますが、私が名刺を出すと、まず「それ何て読むのですか」という質問が来ます。鱗翅(りんし)というのは「うろこのはね」ということですので、これは蝶や蛾のことなのです。蝶と蛾をひっくるめて鱗翅目(りんしもく)といいます。
 今回の二上山総合調査研究会では、地質や歴史のほかに、富山県にいる生き物の調査の専門家の方たちも参加しておりまして、私は昆虫を担当することになります。
 私が昆虫採集を始めたのは二上山で、その当時は、夏休みの宿題といえば昆虫採集に決まっていたものです。最近は、学校ではあまり昆虫採集をさせないような風潮になりつつありますが、私はやはり子どもたちが育つためには、昆虫採集が非常に大事ではないかなという考え方を持っております。実は富山県の昆虫については、例えば、立山、有峰、五箇山あたりの調査はいろいろ進んでいるのですが、二上山のような少し低い山の昆虫については、あまり調べられていません。今回このようなかたちで、二上山の調査が行われるということで、私は非常に喜んでおりまして、楽しみにしております。
 今日お話ししたいことは3 つあります。フシキキシタバという蛾の話と、わが国の国蝶であるオオムラサキの話と、ギフチョウの食べる植物であるカンアオイについてのお話に少し触れてみたいと思います。

写1.フシキキシタバ
 これがフシキキシタバという蛾(写1 )です。大きさは約4 センチ5 ミリほどのそんなに大きな蛾ではないのですが、これは非常に珍しい蛾で、1886 年(明治19 年)にイギリス人のリーチ〔John Henry Leech (1862 年〜1900 年)写2 〕という博物学者が日本に来て、長崎から函館まで日本海沿いに採集をしていたときに、7 月に伏木に立ち寄って採集して世界に紹介した蝶なのです。フシキキシタバという、このように下の羽が黄色くなっておりますが、これは高岡市の伏木にちなんだ名前なのです。

写2.イギリスの博物学者リーチ
 ところが、リーチが1886年に採集して以来、ずっと採れなかったのです。ですから外国人が来て、ほかの中国とか韓国あたりでも採集していますので、その辺の間違いではないかということで、「伏木」ではなくて「不思議」、“フシギキシタバ”ではないかと、ずっと言われていたのです。ですから、蛾を研究する日本の学者の間では、高岡市の伏木の地名は、このフシキキシタバによって有名なのです。長いこと採れなかったので、“フシギキシタバ”ということでずっと言い伝えられてきたのですが、戦後しばらくしてから滋賀県で採集されまして、日
本にもいるということがわかったわけです。その後、1964 年、今から37 年前に、有峰で採集されついに富山県にもいるということがわかり、非常に注目を集めたわけなのです。しかし、有峰は標高が約1000 メートルほどの高いところです。リーチは4月に長崎へ来て、9月に函館へ到着していますので、そんなに奥地まで行っているわけではないのです。ですから、この二上山周辺で採集しただろうということが考えられます。
 蛾の採集には、皆さんご存じのように誘蛾灯というものがあります。今、我々は水銀灯や蛍光灯を使って採集するわけですが、その当時はアセチレン灯です。カーバイドを使って、明かりをつけてやるのですが、これでたぶん伏木の近く、二上山あたりで採集したのだろうということが推測されます。ところが富山県の研究者では、フシキキシタバをターゲットにして二上山あたりで採集をやった人がいないのです。ですから今回、私がこういう研究会があるということで、まず第1にぜひ二上山でこのフシキキシタバを採ってみたいということで、1つの大きな目標ができました。
 リーチは有名な学者で、イギリスのリバプールの近くで生まれております。リバプールというのは皆さんご存じのビートルズの生まれた町です。リーチは世界中、いろいろなところへ行って、昆虫、特に蝶、蛾の類を主に調べており、大きな成果を上げております。
 そういうことを思いまして、今年は実は1 回だけ、大師ヶ岳の方で夜間採集をやりましたが、来年は、この蛾が出るのは6月から7月にかけてですので、この時期に夜間採集をやってみたいと思っています。
 先日も夜間採集を二上山総合調査研究会の会員の方々に見ていただきました。フシキキシタバはそう簡単に捕まるわけではないのですが、夜間採集にできたら皆さんも参加していただければと思っております。もしも見つかれば、115年ぶりの記録になるわけですので、私も楽しみにしておりますし、できたら皆さんも関心を持っていただければと思っています。次にお話しするのは、オオムラサキという蝶(写3 )です。これは切手にもなっておりますし、日本の国蝶なのですが、非常に大きな蝶で、昔私たちが二上山で昆虫採集を始めた頃には、二上山の頂上、我々は奥の御前(おくのごぜん)という呼び方をしていましたが、あの頂上へ行きますと、7月頃にたくさんのオオムラサキが飛んでいました。

写3.オオムラサキ
 ところが、今から20年ほど前から全然見なくなったわけです。原因はわからないのですが、万葉ラインの建設、開通とほぼ同じ頃に前後していなくなりました。このように蝶がいなくなる原因は、1 つには、この昆虫が食べる植物が切られたりしていなくなるような原因と、昆虫採集者が乱暴な採り方をしていなくするような例があります。
 ところが、このオオムラサキの食べる植物はエノキなのです。エノキは城山の方に行きますとたくさんあります。このオオムラサキは幼虫で越冬しますので、何回かエノキのある城山の方に行って幼虫探しをやりましたが、どうも見つからない。ほぼいなくなったのではないかと思われます。
 実は富山県下でもこのオオムラサキの産地がいくつかあるのですが、いくつかのところではいなくなったところが多いのです。エノキもあるし、環境としてはそんなに変わっているわけではないと思いますので、できたらもう一度二上山の頂上でこのオオムラサキの棲む姿が再現できないものかという夢を私は持っています。
 オオムラサキは非常に大きな蝶で、近くを飛ぶと、羽がシュッというような音をたてる、非常に勇壮な、男性的な蝶です。蝶というのは女性的なイメージがあるのですが、私はいつもこのオオムラサキを見たときには男性的なイメージを持つ、非常にきれいな蝶です。二上山の頂上でまたオオムラサキが見れる日を楽しみに、再現計画と申しますか、そういう構想を夢に描いております。

写4.ギフチョウ
 次にもう1 つお話ししたいことは、ギフチョウ(写4 )にかかわる話です。これは非常にきれいな蝶で、春の女神として、春になると話題になる蝶です。
 県内にはあちこちに沢山いるのですが、能登半島に向けて、二上山、宝達山、それから石動、倶利伽羅あたりからはいなくなるのです。
 まずこの蝶がいるための必要条件は、幼虫が食べるカンアオイという植物がないといけないのです。私が小さい頃から二上山で昆虫採集をやっているときには、ギフチョウはいなかったし、さらにその食べる食草であるカンアオイを探したのですが、見つからなかったので、本当に二上山にはいないのだろうかと思っておりましたが、私も所属している高岡生物研究会の内島さんという方にその話題をちょっとしますと、「いや、二上山にヒメカンアオイ(カンアオイの一種)ありますよ」という話でびっくりしました。それで、高岡市内の内島さんの家へ行きますと、ヒメカンアオイがあったのです。

写5.ヒメカンアオイ
 これがそのヒメカンアオイ(写5 )という植物です。今、城光寺野球場ができていますが、そこのところにあったそうです。ですから、そのあと城光寺野球場ができまして、このヒメカンアオイはもう消えてしまったのですが、私は内島さんに頼んで、少し株分けしていただいたのがこのヒメカンアオイなのです。
 実は、カンアオイというのは、園芸品種としても非常に皆さんに関心を持たれる植物で、それぞれ、富山県下のカンアオイを見ても、筋が張ったり、斑(ふ)が入ったりして、特徴のあるものがあります。城光寺野球場のところでは消えてしまったわけですが、その後、このヒメカンアオイがどこかにあるのではないか、さらにひょっとすれば、ギフチョウが見つかればと思っているのです。
 実は、ギフチョウは全国的に見ましても、能登半島とか房総半島など、半島部にはいないのです。こういう研究というのは、先入観を持ってしたらとんでもない間違いをして、とんでもない発見がされることがあります。カンアオイについても一般の方は知っている方もおられますし、花を見れば特徴があるのですぐわかります。よく間違えるのは、園芸品種でもあるからです。私も能登半島にあるという話を聞いて珠洲の方まで行ったことがあるのですが、そこの皆さんのところの庭に植えてあるのはカンアオイという植物ではあるのですが、園芸品種でコマノツメという名前だと園芸屋さんが言っておりました。それもギフチョウに与えれば育つ植物です。しかし、それと在来のヒメカンアオイというのは姿を見れば違いがはっきりわかります。
 今申しましたような3 つほどの話に、私は二上山研究の夢をかけていきたいと思います。ぜひ皆さんも関心を持っていただきたいと思います。私の話は以上で終わります。

■中葉
 大野先生、どうもありがとうございました。先生の方からは蛾と蝶、植物ではヒメカンアオイについて、少し思いを語っていただきました。
 それでは次に、皆さんもおなじみだと思いますが樽谷先生の方から、この二上山の伝承とかいろいろな面から話をしていただこうと思います。それでは先生お願いします。

高岡市児童文化協会副会長
樽谷 雅好(たるたに まさよし)氏
●PROFILE
昭和24 年生まれ。郷土史、伝説伝承、宗教民俗学、宗教史など幅広い分野の研究を長年にわたり続けている。魅力あふれる語り口には定評があり、これも深い知識に裏付けされ、ひときわ光彩を放っている。(財)高岡市民文化振興事業団理事。二上山総合調査研究会会員。

■樽谷
 樽谷です。ちょっと風邪をひいておりまして、お聞き苦しいところがありましたら、ご勘弁いただきたいと思います。
 今日は二上山のことについて、時間が短いので約二点に絞ってお話をしようと思っております。一点は、この二上山という山は、実は遠くから眺めると非常に面白い山であるということです。遠くから眺めるというのは、必ずしも肉眼で眺めるという意味だけではありません。遠くの地から二上山を思いやるとか、知ることができるということを、少しお話したいと思います。
 具体的に言いますと、例えば、私の本職は実は魚屋なのですが、商売柄よく福光へ配達に行くのです。福光の魚屋連中が私に「お前、高岡の者なら福光から二上山が見えるのは知っているだろ」と言うのです。私は、「まさか福光から二上山は見えんまい」と言うと、連れていかれたのが、福光の町の中の小矢部川の橋の上なのです。駅前からまっすぐ来て福光中央通りにいく手前のところに架かっている「福光橋」という名前の橋ですから、皆さんが行かれればすぐわかると思います。この橋の上から下手へ、つまり北の方向を眺めますと、ちょうど小矢部川の水面の真上に、二上山が小さくですがくっきり見えるのです。
 浮き上がったように。富山湾の海上に見える立山も立派なのですが、私は高岡市民として福光町から眺めた二上山の方により感動したということなのです。
 もう一つ大門町に水戸田というところがあります。これはつい先日、富山県いきいき長寿財団の『VITA (No.46 )』という雑誌に書いたことがあるのですが、水戸田に密蔵寺というお寺があります。水戸田の密蔵寺と二上山は、実は大変深い関係がありそうなのですが、歴史の中に埋没している部分が多くてよくわかっておりません。ただ、大門町の人たちが調べたところによると、熊野街道という道があります。この熊野街道に沿って、大門町に「絹鹿の子」で有名な石川屋さんというお菓子屋さんがあります。
 その石川屋さんのところから、ほとんどまっすぐ南の方へ下る旧道があります。二口というところを通って、本江あるいは開口(かいぐち)、藤巻、水戸田というところへ向かっていく、その道が熊野街道といわれています。しかし、石川屋のお菓子屋さんから水戸田の密蔵寺へ行くのを熊野街道というはずもないので、熊野街道が元来はどういう道だったのかということをよく調べてみますと、どうも二上山と密蔵寺の熊野山とを結ぶのが、熊野街道だったのではないかと私は考えます。
 一つの傍証といたしまして、詳しいことは『VITA (No.46 )』という雑誌を見ていただければわかると思うのですが、あっと驚く経験をしました。熊野山密蔵寺というお寺へ行ってよくわからなくて、どうしようかなと思いながら帰ってくるときに、山門から石段を下りてきますと、参道の両脇に杉の木のこんもりした林があるのです。狭い参道で真っ暗なわけです。ところが目の前は、杉木立をすぽんとえぐり取ったように、外の明るい景色が見えるのです。石段を下りるときというのは、あまり正面は見ないものなのです。なぜかといいますと下がりますから足元が怖いので、下ばかり見て下りるのです。ここはちょっと盲点だったのですが、私はいいかげんな男ですから、足元を見ないで前を見てしまった。そうしましたところ、目の前に二上山の頂が見えたのです。水戸田の密蔵寺からですよ。これは、ぜひ皆さんも体験していただきたいなと思うのです。ただし、ゴルフの練習場があって、すっきりとは見えません。ゴルフの練習場の上にちょっと見えるのですが、これは感動しました。なぜかと申しますと、水戸田の熊野山と二上山との関係がそれではっきりしたのです。密蔵寺から二上山を、このような狭い参道のスペースからまっすぐ眺める、しかも北に向かって眺めているのです。
 密蔵寺という寺は二上に対して北面しているわけです。北面というのは深い意味があって、北に面するという意味だけではないのです。「君子南面す」と申しまして、君子というのは、前田利長のお墓がそうなのですが、南を向いております。君子、つまり偉い人はおおむね南を向くのです。南を向いている墓を造るのです。あるいは玉座というのは大体南を向いています。京都の御所なども全部南を向いているわけです。二上山が南へ向かって密蔵寺に対している。密蔵寺は北へ向かって二上山へ向いている。これは、北を向いている方が下位なのです。南を向いているのが上位なのです。
 このように遠くから眺める二上山というのは、大変面白いものを見せてくれるというところがありますから、皆さんもぜひ地元ばかりにおらずにどこか遠くへ行って、例えば富山へ行った、入善へ行ったというときに、二上山が見えるかと、こちらの方向を眺めてみると、意外なところから二上山が見えるという経験をなさることもあると思いますので、これをお薦めいたします。
 もう一つ、先程、奥の御前のお話が出ましたが、私は前の御前(まえのごぜん)のお話をしようと思います。前の御前、つまり万葉植物園のあるところに、悪王子社というその名も怖いお宮さんがあります。不思議な名前の「悪王子」というお宮さんです。それについてはかつて高岡市民文化振興事業団が出しておいでます『きらめきTAKAOKA (vol.15 )』という雑誌に書いたことがあります。

悪王子社の前にて(二上山探究講座平成13年8月19日実施)
 悪王子社というお宮さんがあまりにも不思議な名前で、しかも二上の地元の方ならご存じでしょうが、県内一円から若くて美しい乙女を一か月に五人ずつ、この二上の神にささげるという人身御供伝説を持っているのです。伝説は必ず美しい若い娘に決まっております。皆さん心配しないでいいですよ。そういう人たちが、人身御供として二上の神にささげられた、その二上の神というのは、二上山を七巻き半もする大きな大きな大蛇であった。最終的には、その二上の神というのが都からの帝のお使い、あるいは偉いお坊さんによって討たれるというお話になるのです。人身御供をとっていい思いをしていた二上の悪い神が葬られたのが、前の御前=悪王子社だといわれているのです。これは二上の地元の方はご存じでしょう。
  この悪王子社とはいったいなんであろうかと思いまして、あちこち駆けずり回ってみたところ、京都市に悪王子という町がありました。京都の中に悪王子という名前の付くところが二つあります。一つは元悪王子町、これはもともと悪王子社があったのだという意味なのらしい。それから、悪王子町という町も別にあるのです。現在、悪王子社というのはやはり京都にあって、これは、四条の通りの側から祗園八坂神社の中に入っていきますと、一番奥の突き当たったところから少し左に行ったところに、八坂神社の中の一つのお宮さんとして、りっぱな祠が建っております。京都へ行って、「二上山の前の御前と同じお宮さんに出会うことができた」ということは大変な感激です。皆さんもぜひ京都へ行かれましたら、祗園の八坂神社へ行き、ぜひ二上山の前の御前に祀られている悪王子社という名前のお宮さんに行ってお参りしていただきたい。「私は越中の二上の方から来ました」と言ったら、必ずご利益があると私は信じております。
 最後にもう一つ、二上神社という名前のお宮さんが、県内に現在でも高岡市内以外に三つあります。一つは富山市の中沖にあります。中沖という集落があって、その中沖という村、それから本郷というその隣村、なぜかしらそこに二上神社というお宮さんがあるのです。村社二上神社と大きい字で書いてあります。それからもう一つ、立山町に下鉾ノ木というところがあります。この下鉾ノ木というところに、やはりこれはまた大きな二上神社というお宮さんがあります。私はいたずら心を持ちまして、その三つの社を線で結んでみたことがあるのです。そうしましたところが、その線のほぼ左端が二上山の山頂になったのです。右側を、つまり東の方へずっと延ばしてみますと、何と立山頂上の雄山神社へ行ったという、まるで冗談のようなお話があります。これは実際にやってごらんなさい。大体そうなります。おおむね、東西のベルト状の西の端に二上山があり、東の端に立山があり、その中間に中沖二上神社、本郷二上神社、そして立山町下鉾ノ木の二上神社があるという事実をぜひ覚えておいていただきたいと思います。
 私の今の話を聞いていると、県内あちこち行って歩くとき、あるいは県外に行ったときに「いや、二上山もたいしたものだ」「おれは高岡の者だぞ」と胸を張って歩けるかと思いますので、参考にしていただければと思います。ちょっと風邪気味ですので、中途半端な話をしてしまいました。以上で私の話を終わりたいと思います。

■中葉
 樽谷先生、どうもありがとうございました。とにかくお話を聴いていると、大門へ行ってみろ、福光へ行ってみろ、京都へ行ってみろ、とにかくそこへ行ったら二上山の感動があるよというお話でした。後からまた、先生にはいろいろな意味で質問にお答えしていただこうかと思っております。
 では次は、晒谷先生にお話をしていただきます。それでは先生お願いします。

高岡市立中央図書館
晒谷 和子(さらしや かずこ)氏
●PROFILE
高岡の伝説・民話の採録や、二上山周辺の石造物調査、江戸時代の高岡の町々と屋号の調査などを、古文書を解読しながら緻密に進める手法には定評がある。二上山総合調査研究会会員。

■晒谷
 よろしくお願いします。樽谷先生の流れるような、紙芝居のおっちゃんの話を聞いているような面白い話のあとに、口べたな上に風邪気味で大変お聞き苦しいかと思いますが、何とぞよろしくお願いします。
 私は二上山に関しましては今から25〜26年前、今の私の年を半分で割った頃から、足繁く通っております。とりわけ石で作った仏様や墓標という石造物を調べ歩いていたわけです。この二上山は調べれば調べるほど面白いものが出てきます。
 まず今日は、今、樽谷先生もおっしゃいましたように、人身御供伝説がどこから生まれてきているのかということが縁起にあるのではないかなと思いまして、『越中二上山略縁起』(写6 )の話からさせていただきます。


写6.越中二上山略縁起…慈尊院所蔵

 この「越中二上山略縁起」を読んでいるだけで10 分はたってしまいますので、かいつまんでお話をいたします。
 この二上山の本社はニニギノミコトという神様で、本地は釈迦如来、それから脇立がお二柱いらっしゃいます。それから御開祖さんは行基菩薩(668 年〜749 年)です。行基さんというのは、和泉の人で諸国を巡遊し、池や堤を作ったり橋を架けた大変偉いお坊さんです。その方が養老元年(717 年)にこの養老寺(ようろうじ)を開かれたと書いてあります。その昔には、本社、拝殿、講堂、宝塔、それから鐘楼、山門など、いろいろ建物があったそうです。今はどうかといいますと、二上の谷内、赤い鳥居の射水神社の向かって右側に慈尊院があります。この慈尊院には看板がかかっておりまして、養老寺別当と書いてあります。別当というのは総務担当のような仕事をするところだと思います。それから上二上に山本天海さんのお寺である金光院(こんこういん)があります。(写7 )

写7.金光院
 ここは高野山真言宗と書いてありまして、金光院の前の看板には「養老寺談議所」となっています。現在、この二か寺が養老寺の法統、法脈を受け継いでいる寺だと言われています。しかしながら、江戸時代には、本覚坊というお寺がありました。本覚坊は、第22 世の裕雄が二上という姓を名のって射水神社の神官となって明治2年に歴史を閉じていますが、この三か寺で、二上山養老寺の法統を保っていると書いてあります。
 しかし、それ以前、今申し上げましたように、お寺の数が3800 坊、それから社家(しゃけ)、社家というのは神主さんなのですが、神主さんが360軒あった。それから4 つの門が東西南北にあり、北は渋谷、東が城光寺、西は国吉の手洗野、それから南は大門、今、密蔵寺の話もありましたが、大門です。この4 つを門としまして、一里四方が神領であったと書いてあるのです。
 その跡をたどれないものかというのが、私の大きな目標だったわけです。この文書の中に智識初穂米(ちしきはつほまい)と申しまして、秋になると養老寺のお坊さん方が、麻で作った布袋をかついで、越中一円各家から1 升2 合の米を集めてもいいという権利を持っていたということが書いてあります。智識というのはお坊さんのことです。それが先程の人身御供伝説ととって替わるのです。人身御供伝説で、かわいいお嬢さん方を一年に60人とって食うといっていたかわりに、お米を各家から1升2合集めてもいいという話にすりかわってきているのです。そのようなことが書いてあります。
 しかし、承平年中(931 年〜938 年)兵火に遭いまして、この養老寺は全部焼失いたしました。その後、空也上人が天皇の命を受けて、再興をした。しかしながら、そのあと天正年間(1573年〜1592年)、天正というのは越後の上杉謙信が前将軍足利義昭の要請を受け、西上を開始し、京の都を目指してこちらへ何回も攻めてくるころなのですが、その天正年中に上杉謙信が攻めてきて、またもやこの養老寺は兵火にかかり、燃えるのです。
 そこでやってきたのがこの養老寺を再興する、中興の祖と呼んでいるのですが、一專というお坊さんです。このお坊さんのことがどうしてわかったかと申しますと、先程申しましたように、上二上には、金光院があって、その東側にあった本覚坊は、明治2年に二上さんという社家になり途絶えるのですが、本覚坊の墓地は、上二上の背後の山を登ると見つけることができます。私は養老寺の歴史を踏まえるために、古文書でもいいですし、石仏やお墓から何かをつかむことができないかと思い、本覚坊のお墓の文字を読んだのです。刻まれているので読めるのですが、そうして見ましたら、お墓の一つは養老寺の4 世弘秀という人のお墓だということがわかりました。さらに、7 世の方のお墓もあります。
 ほかにもお地蔵さんに文字が刻まれております。これらのことからこの墓地全体に、本覚坊の歴代が祀られていることがわかりました。このお墓は村の方が手入れされているのか、だれが手入れされているのかはわからないのですが、いつ行きましても、きれいに掃き清められておりますし、冬は藁で、特にお地蔵さんなどは囲って、雪が直接あたらないようにして、大変丁寧に祀られています。
 ここでは4 世まではさかのぼることができるのですが、その先の証拠が何か見つからないものだろうかと思いあぐねていたところ、上二上の金光院の山本天海さんという方にお会いできました。
 そうしましたら、そこのお寺には焼けずに残っていたという古文書(写8 )がありました。それがこれなのです。

写8.更級右近太夫源國政之事…金光院所蔵
 これも大変読みにくくて申し訳ないのですが、これは「更級」と書いてあるのです。「更級右近太夫源□□□□」、ここが消えていますが、「國政之事」と書いてあります。これもだんだん読んでいくと少し時間がかかるのですけれども、この方は「天文の末年に越中より居住、同国、海老坂そのほか数か所を領す。後年・・・」と書いてありまして、「射水郡二上山は古跡の地、往昔は堂社数宇其外数百坊在るの由」ですかね、ちょっとわからないですね。写りが悪くて読めませんが、「そのほか数百坊もあった」ということで、「兵乱になって衰微退転したのだけれども、更級右近という方がこれを再興し、同社を建立す」と。このころ右近の二男がお坊さんで、この人を「二上再興の祖と相定め」ました。これを本覚坊法印一專(ほんがくぼう ほういんいっせん)といったのです。
 二男というのは、もう一度言いますと、「更級右近太夫源國政二男なり」と。「童名が龍王丸という。8 歳の時より紀州高野山遍明院門弟となり一專という」と。この一專という人が養老寺を再興するということになったのです。(写9 )

写9.堀内帯刀景廣之事…金光院所蔵
 この方が、何が大変おもしろいかと申し上げますと、「天正6 年能州の豪家長九郎左衛門尉長谷部連龍能州より越中へ退去。二上山談議所に滞留の義頼まれ候由。よって法印一專その旨にしたがい、連龍を二上山に迎え・・・」と続くのです。つまり、天正6 年(1578 年)に、前田利家の傘下に入っている長連龍(ちょうつらたつ)が金光院に身をかくまわれているのです。というのは、前年の天正5 年(1577 年)、上杉謙信が足利義昭から上洛の要請をうけて春日山城を発し、一路能登をめざして、畠山氏の七尾城を落としました。この時畠山の家臣は、謙信方の遊佐氏などと織田方の長氏に分裂します。金光院に寄寓した理由は、長連龍が安土城の織田信長に援軍を求めていっている間に、長家一族百余人が遊佐方に殺害され、連龍は頼るべき身寄りがなくなってしまったからです。そこで、金光院に滞留ということになります。守山城主の神保氏張(じんぼうじはる)が織田信長の旗下にあったからです。ですから別に不思議ではないのですが、そういう関係で金光院に身を寄せるのです。長連龍に逗留された金光院の一專は、何とお坊さんでありながら長連龍に志を寄せまして、親子ともどもお米や軍備品などを贈って、そのうえ自ら長連龍とともに越中で戦いを繰り広げます。
 それで最終的には織田信長がこの戦いに勝って、前田利家が七尾城に入ります。長連龍は、鹿島半郡59 ヶ村を織田信長から与えられます。そして、一專に「わしのところに来い。衣を捨てて侍になれ」ということで侍にさせるのです。一專は、還俗して連龍に従って能登へ行き、後年、堀内帯刀景広と名を改めます。
 その後一專は、連龍の家臣として、越中で勇ましく戦いに明け暮れます。1600 年天下分け目の関ケ原の戦いがあります。前田利長は徳川家康方につきます。この映像(写10 )は、石川県小松市郊外にある浅井畷(あさいなわて)の古戦場です。石川県指定の文化財になっており、私はここへずいぶん以前に行ったことがありまして、村の人に聞くと、「ここの土地は大坂方と徳川方が戦いをしたところなので、お盆になると今でも子孫の方がお参りにこられるところなんでね」と言われました。

写10.浅井畷古戦場(小松市大領町)
 この関ヶ原の合戦がある直前、全国各地で東軍と西軍の小競り合いがありました。ここでも前田利長と小松城主丹羽長重(にわながしげ)の戦いがあったのです。越前の大聖寺城を攻め落とし、金沢城へ引き返そうとする利長軍を、大坂方の小松城主丹羽長重が浅井畷で迎え撃ちました。そのとき長家の家臣が殿(しんがり)を務めたのです。そこは泥沼の大変ひどい、畷というところですから、田んぼのあぜ道のどぶどぶのようなところだったのです。しんがりを務めた長家の家臣の中にこの一專が入っていたのです。ここで9 名亡くなっております。
 この浅井畷の古戦場に一專の墓標があります。これは浅井畷合戦後の60 回忌にあたり万治3年(1660年)8月9日に、一專(堀内帯刀景広)の孫が作ったものです。これにはいろいろ文字が刻まれております。私は165センチあるのですが、私の背丈よりもまだまだ高くすばらしい墓標が建っております。長家にとっても大事な一專であれば、前田家にとっても大変大切なこの浅井畷の合戦だったのです。おかげで、前田家は、関ヶ原の戦いの後、加越能三カ国120万石の大々名となりました。戦いに頑張った一專を、前田家ともどもこのようにして顕彰していると考えられます。
 現在も浅井畷へ行けばすばらしい公園になっておりますので、皆さん今度は小松の方へも行っていただければと思います。ということで、古文書やこういう石碑などに刻まれた文字からいろいろなことがわかってくるということです。二上の方々はいろいろな古文書や絵図をお持ちだと思います。見せていただければ読ませてもらって、何か解明できることがあったら、郷土の歴史をひもとく喜びをみんなで分かち合いたいと思っておりますので、よろしくお願いします。ありがとうございました。

■中葉
 晒谷先生、どうもありがとうございました。4 人のパネリストの先生方どうもありがとうございました。10 分位お話ししてくださいということだったのですが、皆さん15 分位話してそれでも言いつくせないくらいです。二上山というのはそれほど沢山の魅力がある山だということが、皆さんもおわかりになったと思います。
 今日は4 人の先生方だけですが、この二上山調査研究会というのは、自然、歴史、文化に分かれて研究を進めていますが、今日は自然の方からは菊川先生と大野先生にこちらの方に来ていただきました。そして、歴史、文化については、今日は晒谷先生と樽谷先生に来ていただきましたが、ほかにもご専門の先生方がたくさん入っておられます。
 研究というものは一つの分野だけでやってもいい成果は出ないのです。そういう意味で自然、歴史、文化、この3 つが合体して、本当に今まで定説のようにいわれていた説がいくつもありますが、それを逆に覆すこともできるし、やはりこれはそうだったのかという大発見がたくさんあります。今は本当にパネリストの先生の方
からほんの一端、こういうところがおもしろいとか、こういうことをしたら夢があるとか、そういう話をしていただきましたが、やはり何といっても地元に住んでおられる皆さんが主役だと思うのです。そういう意味で皆さんの方から「いや、こういうこともあるぞ」と、または専門の先生から「じゃあ、こういうことはどういうことなの」ということをお聞きしながらお互いやりとりをして、10 年間という長いスパンでやれば、大発見があると思います。
 今日は4人の先生方がいらっしゃっています。先程言いましたように、ご専門がありますので、こういうご専門の立場から皆さんの方からご質問などをいただいて、このあとの会を進めていきたいと思います。それで、質問をなさるときには住所とお名前を大きな声で言っていただいて、質問をしていただければと思います。それでは、皆さんの方から何か質問はないでしょうか。質問のある方は手を挙げてください。よろしくお願いします。
 それでは、そちらの方よろしくお願いします。お名前と住所からお願いします。

■中山
 中山哲と申します。住所は高岡市石瀬に住んでおります。先程から先生方のお話を聞いておりました。私も9 月にこの研究会に入った会員の一人です。なぜ入ったかということからお話ししますと、ふるさとを学び、万葉ゆかりの美しい自然に親しみ、二上山の自然や歴史と文化を同好の仲間とともに楽しく学ぶということに感動して、入会をしたわけです。
 それで、まず初めに9月21日、先程、大野先生から話がありましたとおり、二上山系の昆虫類の夜間採集をいたしました。大変楽しく過ごさせていただきました。それから9月24日には、桜谷古墳、太田自然休養村を経由して、大師ヶ岳の散策、国泰寺と、その間、動植物や昆虫、それから歴史等を学びながらの散策で、大変楽しい一日を過ごしました。本当にありがとうございました。
 さて、今まで申しましたが、現在の子どもたちは、我々50代、60代、その上の方もおいでだと思うのですが、私たちと比べますと、やはり自然の美しさというか、自然の大きさ、すごさを知っていないというのが現状だろうと思います。それで、二上山の自然は私だけのものではないということを念頭に、その知る手助け、機会づくり、資料づくりが必要ではないだろうかと考えます。
 私は高校時代からずっと昆虫方面をやっていたわけで、大野先生に一つお願いしたいのです。大野先生は二上山でのフシキキシタバとオオムラサキ、カンアオイの3 つの発見を目標に挙げておられますが、ここでもう少し範囲を広げて、二上山系に棲む昆虫の図鑑といいますか、そういう資料づくりをやっていただけないかと思います。それから、親子の昆虫採集や標本の作り方といったような講習会等も考えていただきたいと思います。それから、これはちょっとわかりませんが、教育の一環として、二上山のこういうところがすばらしいのだというものを踏まえて、小学校なり中学校なり、その教育の一環として入れていただきたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。

■中葉
 どうもありがとうございました。質問というよりも、こちらに対しての要望がたくさん出ました。これはまた会の方や事務局の方でお話をしながら進める問題だと思うのです。今のお話で昆虫のことが少し出てきましたので、簡単に大野先生、何か一言お願いします。

■大野
  私の方への質問ありがとうございました。
 先程から言っておりますが、お話しする時間が非常に少ないので、私としては、いろいろお話ししたいことが沢山あります。質問の中でもありましたが、最近の子どもたちは外へ出て遊ぶ、さらに私のサイドから言えば虫と遊ぶというのが非常に欠けているのではないかなという思いをもっております。ときどき耳に挟むのは、日本人として初めてノーベル化学賞をもらわれた福井謙一博士のことです。あの方の「私は小さい頃はほとんど勉強せんと、昆虫ばっか相手にして遊んどったもんじゃ」という話が出てくるのです。私のような昆虫が好きな者には非常にうれしい話です。しかし考えてみれば、今の子どもたちの育ち方を見ておりますと、何か一 つ本当に自分の好きなものをやっていないのではないかなと。ときどき私も昆虫教室や昆虫採集の会などをやるのですが、男の子たちの目の輝きを見ておりますと、あれが本当の子どもたちの気持ちといいますか、心の中身ではないかなという思いをすることが多々あります。
 ですから、今回このような研究会が発足した機会に、先日夜間採集もやったわけですが、来年にかけて、ぜひ子どもたちの参加というかたちの昆虫採集をやってみたいと思います。さらに今私の頭の中にある構想は、二上山の昆虫の副読本、市民読本を作ってみたいということです。図鑑を見ればわかるのですが、そうではなくて、二上山へ持っていけるような一般の人にもわかりやすいハンドブックみたいなものを作れないかということを考えております。何分にも昆虫というのは非常に広い範囲ですので、全体をわたると非常に細かいところまでいけませんので、いくつかの分冊ですね。例えば一番身近なものとしてはトンボを第1回に出して、2回目に蝶とか、そういうシリーズのもので、市民読本みたいなものが作れないかなということを構想として持っておりますし、さらに一緒にフィールドに行けるようなことも考えておりますので、ぜひ皆さんの方で参加していただきたい、いろいろな意見を寄せていただきたいと思っております。ありがとうございます。

■中葉
  大野先生どうもありがとうございました。それではまだまだ質問があるかと思いますので、そちらの方よろしくお願いします。

■北世
 地元に住んでおります北世という者です。今日は、この万葉社会福祉センターで、「二上山を考える市民フォーラム」が開催され本当にありがとうございました。
 我々は小さい時分から山の中を飛び歩いております。また、特に樽谷さんの話や晒谷さんの話は、おじいさんやおばあさんの方からも話を聞いております。樽谷さんの話に関連しますが、実は金光院と大門の密蔵寺とは親戚だというように聞いております。今は亡くなられましたが、密蔵寺の方がよく二上の方に、今から20年前でしょうか、90 歳にして自転車で何遍もこの地区においでになったことも知っております。そういう関係で、先程話がありました金光院と密蔵寺とのつながりがわかれば、非常に意味のあることだと思いす。
 そしてまた、二上山にはいろいろな名前があります。例えばアサダンだとかオッチャコンゴだとか、ちょっと私も今ここで言えませんが、ヤマとかタニとか、そういうものから、どのようにして名付けられたのか、そしてまたどういういわれがあるのかということをお調べになれれば、我々も幸いと思います。以上です。

■中葉
 どうもありがとうございます。本当に、今、北世さんの方からお話があったのですが、地名の方で、谷という、「何々谷(だん)」というものが出てきたのですが、私の方で地名を調べているのですが、この「タニ」というのは、皆さんあの字だなというのがわかるのですが、あれは「タニ」とも読めますし、「ダン」とも読めますし、「ヤ」とも読めますし、あるところに行くと、あのままで「ヤチ」という読み方があるのです。この二上山は私に言わせたら、ちょうど分岐点というのか、読み方が「ダン」「タニ」「ヤ」いろいろなものがあるのです。だからこの「谷」という地名を一つとっただけでも、何か二上山を調査する意味があるのではないかと思っているのです。
 だから1 つは、自分としては先程大野先生がこういうことをやってみたいなということを言われましたが、私は地名だけで何か一つ調べたいなと思うのは、「谷」という地名なのです。しかも、二上山塊では250〜270メートルの間で、いくつもの谷があるのです。私が今住んでいるところは氷見です。氷見には余川谷、上庄谷などの谷があるのですが、二上山は、谷の深さということで言えば、そんなに深くないのです。深くないのに「谷」という地名をとっても「ダン」「ヤ」「ヤチ」という谷地名があります。どうしてこういうような読み方をする谷地名が分布するのか、すごく興味を持っているのです。
 これもやはり皆さんからいろいろなお話を聞いたり、実際に現地を歩いて。しかもこの現地を歩くのは、ただ自分で歩いているだけでは何もわからないのです。しっかりと地元の方と一緒に歩く、それと先程の晒谷さんのように古文書とか石造物を専門とする違う分野の人たちと、また自然が専門の先生方たちと歩くことによって、初めてその「谷」という地名の解明ができるということなのです。そういう意味で、本当にぜひ皆さんと一緒に歩いて、教えていただきたいなと思っております。
 ほかに質問はないでしょうか。この機会ですので、いろいろなことを、逆にこういうことがあるよとか、こんなことが二上山にあるのだけどとか、そういうことで、質問していただければありがたいのですが、どうでしょうか。ないでしょうか。
 今日は初めてのフォーラムで、おいおいこれから10 年間二上山研究をやっていくわけですので、またこういう会も今後もあるかと思います。それでは先程、まだまだ話し足りなかったパネリストの先生方もあるかと思いますので、パネリストの先生方でこういうことを言い忘れたということを、少しお話ししていただこうかなと思います。それではちょうど私のお隣の晒谷先生の方からお話をしていただけませんか。

■晒谷
 5分も余計に話したのに、また話させてもらって申し訳ございません。面白い話を1つ話させてください。神保の殿様がこの守山城の城主だった頃の伝説があります。これは「白米伝説」と申しまして、上杉謙信が攻めてきても、なかなか守山城が落ちないわけなのです。落ちないどころか馬の背中を水を流して洗っている。それで「あんなに水がたくさんあるのだったら、なかなか城は落ちんやろうな」と上杉謙信の方は大変がっくりしていたところに、あるおばあさんが、なぜかおじいさんではなくておばあさんなのか不思議なのですが、あるおばあさんが、上杉謙信の陣中へこそこそと入ってきて、「あれは水に見えるけれども、太陽が沈むころ見てみなされ」と言うのです。それで「水のところへカラスがカアカアいっぱい来て、米をついばんでおりますぞ」というふうに言うのです。あれは、米を水に見せかけていたのかということで、一気に上杉勢が神保を攻めるという構図になっているのですが、これは全国各地にある「白米伝説」なのです。この話は地元の方が大変よくご存じです。おじいちゃんおばあちゃんに聞くと、大抵の人は知っておられます。
 その後、前田利家、利長親子が、守山城へやってきます。「利長は何とこの守山城に13 年間城主としておられました」と言いましても、一般市民の皆さんには、口々に「そんな話聞いたことなかったわ」と言われるのです。私はどうしてかなと思いましたら、戦いがほとんどなかったわけなのです。と申しますのは、ここを守っていたのは、神保の殿様なんですが、佐々成政の配下にあったわけなのですね。1585年に、太閤秀吉が多くの手勢を率いてこの越中に侵攻したとき、成政はほとんど戦わないで降参してしまったのです。ですから、守山城ではほとんど戦いがなかったというわけで、前田利家、利長親子の戦さの話は、地元にはほとんど残っていないということです。
 それともう1 つ、話が長くなって申し訳ありませんが、私が大変面白いと思っておりますのは、佐々成政はその後、秀吉から大変嫌われまして、新川郡1郡のみ与えられるのですが、そのあと肥後の国へ転封させられるのです。その後、そこの治め方が大変悪いということで、とうとう切腹させられてしまうのですが、この神保氏張さんという方は、何と佐々成政と一緒に肥後の国へ行くのです。最後まで佐々成政の配下にいます。そして、佐々成政が切腹させられた後は、徳川家康の家臣に入っていきます。千葉県の伊能に神保の殿様の子孫は延々と生き長らえました。当時の戦国の武将の生き方というのは、ここで負けても次に勝つというような格好で、大変面白いなと思っております。
 二上山の話から少し離れましたが、面白い話を1 つさせていただきました。

■中葉
 晒谷先生、どうもありがとうございました。時間も少しずつ迫ってきたわけなのですが、一言ずつお話ししていただきます。樽谷先生何か。

■樽谷
 今の晒谷さんの話を若干フォローしますと、戦国武将の佐々成政が富山城にいたわけですが、子孫の方がいらっしゃいます。元内閣安全保障室長で『連合赤軍「あさま山荘」事件』(文藝春秋刊)や「危機管理宰相論」(文藝春秋刊)など多くの著書をお出しになっている佐々淳行氏がその子孫でいらっしゃいます。これは作家の遠藤和子さんの『佐々成政』という本の後書きにご本人が書いておられますから、間違いのないことだと思います。その佐々成政が富山城にいて降伏したのですが、豊臣秀吉の軍勢の先鋒を務めたのが当然前田軍なのです。前田利家、利長の軍勢が先頭を切ってやってくるわけです。秀吉本人がどこまで来たのかよく知らないのですが、何せ圧倒的多数の秀吉軍が越中へやってきて、富山城を包囲した。夜、富山の山の辺にずっと秀吉軍のたいまつがたかれて、それを見たとたんに佐々成政は「これは戦争しても意味ないじゃ、全滅させられるっちゃ」というので、戦いなしで降伏しました。その秀吉の軍勢の本陣を置いた場所が、太閤山という名
前で現在も残っているということです。
 それから先程の神保安芸守氏張なのですが、千葉県の成田からバスで30 〜40 分のところに、地図を作った伊能忠敬で有名な伊能という村の領地をもらっていた神保氏張のお墓が、その村の宝応寺という禅寺に今でも残っております。ですから今度は千葉県へ行かれたらどうかと思います。成田の不動様にお参りして、不動様のすぐ近くにバスが出ておりますので、佐原行きに乗り、成田空港の横を通ってずっと行きましたら、伊能という村があります。伊能忠敬は婿はんですから、その伊能家の出身地だろうと思います。そこに領地をもらうのです。元来、旗本というのは大体給料が低いのですが、徳川家康によって別格の給料をもらって旗本にとりたてられるのです。

■中葉
 どうもありがとうございました。今度は千葉と東京へ行けという話でしたけれども。本当に時間も迫ってきましたので、大野先生一言。

■大野
 短い時間で切り上げようと努力しますので、一言言わせてください。先程、オオムラサキという蝶の話をしましたが、私は二上山でいなくなったというような断定的なことを言ったのですが、実は皆さんの方から手が上がって、「おら、見たことあるぞ」という話が出てくるのではないかというのが非常に怖かったというか、期待もしていたのですね。
 実は、これだけの皆さんの中ではなかったようですが、我々が調査研究しておりますと、いたというのは非常に簡単なのですが、いないというのが非常に難しいのです。どれだけ調べたかというレベルの差が大変あります。最近の話なのですが、私は5年ほど前に富山県生物学会の会誌に「小矢部川のジャコウアゲハはいなくなりました」と書いたのです。ところが、2〜3年前からジャコウアゲハがいるようになったのです。私の調べ方が徹底していなかったというのもあるのですが、「いなくなったのではないか」ぐらいに書いたのですが、どうも私が「いない」と断言したようにとられたようでした。
 それが今、小矢部川沿いに沢山おります。そういうことも含めて、高岡の二上山にオオムラサキがいなくなったというふうに思っているので、少なくとも30 〜40 年前まではたくさん見られたはずのオオムラサキがいなくなったことは確かなのですが、「いなくなった」と断言するのは難しいのです。ですから、ぜひ皆さんの目でまた二上山に行かれたときに、あの蝶は非常に目立つ蝶ですので、見られたら「見たぞ」という報告があるのを期待しております。よろしくお願いします。

■中葉
 大野先生、どうもありがとうございました。それでは菊川先生、簡単に一言お願いします。


二上山の遊歩道にて(二上山探究講座平成13年8月19日実施)

■菊川
 先程も少し申しましたように、二上山は、川で運ばれた砂や泥が海で水平に堆積し、それが盛り上がってできてきました。二上山の東側は海へ浸し、西側は海老坂断層で急に低くなっています。二上山の周りに海面が上がったり下がったりしたことを示す段丘があります。狭いエリアですがいろいろな現象が残っている、非常に面白い地域です。そういう意味で二上山というのは地形・地質的にも非常に興味と関心の高い場所であるということをご理解いただければと思います。どうもありがとうございました。

■中葉
 菊川先生、どうもありがとうございました。それでは最後に、今日最初に基調講演をしていただきました古岡先生から、アドバイザーという立場で、全体的な締めの言葉を少しお話をしていただこうと思います。先生、お願いします。

■古岡
 先程は時間がないなと思って、少々早口でしたからおわかりにくかったであろうと思っております。その点については深くおわびいたします。
 そこで、先程の第4 の視点の中で、仰ぎ見る山という視点があるのではないかと申しましたが、これまで4 人のパネラーの方々のお話の中で語られてきた二上山は、おおむね陸上からの二上山でした。したがって海上から仰ぎ見る二上山という視点は、やはり大きく取り上げていかなければならないことではないかと思うのです。と申しますのは、富山湾を航行したかつての船人にとって、二上山というのは極めて重要な標識の山であったのではないかということです。山見航法と言いまして、陸上にある特色のある山や木その他を目当てにしながら陸に沿って航行しなければならなかった昔の船にとって、二上山は、周りに高い山がないために、標高がたった274メートルしかない低い山であるにもかかわらず、ものすごく高くなって見えます。そのため立山と並び称せられる地位を得ているほど目立つ山であっただけに、船に関係のある人にとっては、とても重要な役割を果たしていたのではないかと思うわけです。そのようなことで、能登半島の先から海岸沿いにずっとたどりながら、二上山というものが、海で仕事をする人にとってどういう役割を持っていたのかということを探究してみたいという気持ちを抱いております。
 それから、網を敷く場合には、どこにどういうふうに網を敷設したら魚が捕れるかということで、やはり地点を決めなければならないのですが、その場合でもこの二上山は標識の山として大変大きな役割を持っていたのではないかと思っております。したがって陸上だけではなく、海の方から見る二上山というものも、やはり仰ぎ見る山での1 つの視点に入っていくのではないだろうかと考えております。
 さてそこで、今ここでお話をなさった4人の先生方の姿を見て、皆さん方はきっとお感じになったと思いますが、4人の先生たちが大変うれしそうな顔で話をしておられましたですね。この大変うれしそうに話をなさるということは、極めて意欲的に物事に取り組んでおられるということです。この姿勢を皆さん方にも持っていただいて、それを子どもたちに伝えていただきたいと思うわけです。私は歴史が専門なのですが、昔から、「歴史の先生というのは見てきたようなうそをつく」と言われています。私が高岡中学校、今の高岡高校で学んでおりましたときに、そこに吉崎という歴史の先生がおられました。この先生のお話が、例えば清軍に攻められて北京が落ち明の王朝が滅亡していくという話でも、「時は何年何月何日何時何分何秒であったんで、であったんであったんであるがだ。北京郊外の万寿山の上から鐘がごんごんなったんで・・・・」というような名調子で話を進めて、もうその話が面白くて、講談を聞いてるより面白かったものです。私はそれを微細に帳面に書き取っていきまして、試験のときになって、昔の試験というのは今のように記号で答えるのではなくて、論文のように書くことが多かったものですから、詳しく詳しく書いたら、大変いい点数を取ったとみえまして、吉崎先生が私に「お前は本校創立以来最も高い点数を取った」と褒めてくれました。それが私をして歴史に興味を持たせるようになったきっかけになっているのです。
 こういうように、子どもたちに対して、何かものすごく大きな感動を持たせることができるということがとても大事なことではないだろうかと思うのです。しかし、子どもを取り巻く環境というものが変化しておりまして、それどころか大変悪化しているため、どんなに自然やいろいろな文化的なことに関心を持っていても、子どもが自分でそれを自発的に調べにいくということに危険が伴うことが多いという、大変悲しい世の中になってきました。これは地域の将来にとり大きな損失と言わねばなりません。そこで、まず大人たちが自分で疑問を持ち、感動するという姿勢を持って、身辺から問題を発見し、自分で仮説を持ち、それを検証していく姿勢を示すとともに、そうした行動が子どもたちに継承されていくような環境作りが必要なのではないかと思うのです。子どもたちに生き生きした目の輝きを取り戻させるということ、これが現在の私たち大人の大きな使命であると思います。そのためにはまず、大人が先ほど申したような姿勢を持つということが大事なのではないだろうかと私はつくづく思います。
 資料調査という研究になりますと、先程からのお話を聞いておりましても、自然系の菊川先生と大野先生のお話の中には、自分の目で実際に確かめなければならないという非常に厳しい検証的なお話が、大変多くありました。ところが、樽谷先生と、晒谷先生のお話になると、どこまでが本当なのだろうかなというような、感覚的でちょっと首をかしげたくなるような話もまじっていました。けれども、ハインリッヒ・シュリーマンが子どものときに読んで感動したトロヤ戦争物語の話を忘れず、大実業家として成功するまで持ち続け、小アジア半島に出かけ、とある場所で、ここでなければならないと、インスピレーションを感じ、そこを発掘してトロヤ遺跡を発見しています。このように、実見できるところの資料というものと、感覚でつかむ資料というものがあると思うのですが、その両方を私たちは大事にしなければならないと思っております。
 実見できるところの資料であっても、研究のためにそれを取り上げていく場合には、史料批判の厳しい操作を踏まえながら進めていかなければなりません。いずれにしろ研究のエネルギーというものは、何よりもまず、4人の先生方が期せずして一様にお示しになったうれしそうな行動、姿勢から出発していくのではないかと思うのです。それと史料批判を伴う厳しい資料操作、その両面を私たちは持ちながら、この二上山の研究というものを進めていかなければならないのではないだろうかと考えております。さらに、この研究を支えるものとして、地域にすむ大人の役割というのはとても大きいのではないかということも考えております。そしてその大人の姿勢が子どもたちに私たちの願いを継承させていくうえで大きな働きを示すのではないだろうかと私は思っておりまして、このことを締めくくりの言葉にさせていただきたいと存じております。ありがとうございました。

■中葉
 古岡先生、どうもありがとうございました。先生の方からは、本当にこの4人のパネリストの先生方の思っていること、皆さん方が二上山に思っていることを何か言っていただいたような気がします。やはり、皆さんもそうだと思いますし、こちらのパネリストの先生方もよく出てくる言葉に「感動」という言葉があったと思います。二上山はそれくらい魅力がある山であるということと、やはり一つのことに感動ができるような、そういう材料というのが二上山にはあるのだということがわかったのではないかと思います。私のコーディネーターの不手際もあり少し延びましたが、時間をオーバーするぐらい、やはり二上山にはたくさんの魅力があるということです。冒頭に私も言いましたように、これは10 年計画で、しかも単なる研究者が集まって研究をするものではない、皆さんが主体になって、市民の皆さんが参加して、この会というものが成り立っていくということです。皆さんのお手元に「二上山総合調査研究会会員募集」のちらしが配布されていますが、やはり気軽に皆さんに参加していただいて、この二上山にお互いに感動していこうということだと思います。ぜひ皆さんにご参加いただいて、二上山を楽しく考えてみたいなと思います。本当に今日はありがとうございました。少し時間をオーバーしましたが、楽しいひとときを過ごせたのではないかと思います。今後とも皆さんよろしくお願いします。今日は本当にどうもありがとうございました。