基調講演 演題「二上山を考える」 古岡 英明氏(高岡市文化財審議会委員)

講師
古岡 英明(ふるおか ひであき)氏
●PROFILE
大正14 年高岡市生まれ。富山師範学校本科卒業。専門は地方史研究。富山県埋蔵文化財センター所長、公立小学校長を経て、現在、高岡市万葉歴史館運営協議会委員、高岡市史戦後編編纂委員などをつとめる。二上山総合調査研究会会員。【主な著書】「越中国分寺の造営とその時代背景」(桂書房)「越中国府と万葉集」(桂書房)共著書「たかおか─歴史との出会い─」(高岡市)「勝興寺地域の考古学的知見」(高岡市教育委員会)

■はじめに
 ご紹介いただきました古岡でございます。時間が限られておりますので、すぐ主題に入ることにいたします。今日、私は二上山について考えるにあたり、4 つの視点を立ててみました。その第1点は、二上山の恵みについてです。第2点は、二上山の持つ閉鎖性について、第3点は、二上山の国見、つまり広く国中を見渡せる性格について、そして第4 点はその逆、つまり仰ぎ見る山という面についてです。
 ここで私が二上山と申しているのは、東の峰と西の峰からなる狭義の二上山を言うのではなく、その主峰を含め、相互に尾根で結ばれながら四方を取り巻いている鉢伏山、摩頂山、大師ヶ岳等の峰々や、谷のすべてを含んで一つのまとまりを持っている山地、いわゆる二上山塊全体を指すことを、あらかじめお断りしておきます。

■二上山の恵み
 では、第1 の視点である二上山の恵みについて考えてみましょう。去る10 月19 日の朝日新聞に、「秋の味覚・マツタケを食べる」という記事が載っておりました。その記事によると、昨年、我が国で1 年間に消費されたマツタケの総数量は3,620 トンで、このうち国内産は181 トン、全消費量のわずか5 %でしかなかったそうです。しかも、国内産・国外産を併せた3,620 トンのマツタケを1 億2000 万人の日本人一人あたりに割り当てますと、1 年間にわずか30 グラム、マツタケご飯1 杯分にしかならないということです。この記事によって、現在、我が国ではマツタケがいかに貴重な食材として扱われているかをよ二上山遠景くうかがうことができます。
 今、富山県内でマツタケが採れる場所は、ごく限られているようです。けれども、1925 年生まれの私が小学校の高学年生、ないしは中学校の低学年生であった頃は、今、岩崎鼻灯台が建っている伏木国分の山や、八十八ヶ所となっている伏木一宮の赤松林に入るとマツタケの香りがしたもので、これらの山に入りますと、その香りは今もなお「ああ、そうだった」とありありと思い浮かべることができます。
 私は、子どもの頃も現在も、伏木の町の真ん中に住んでおります。その家の前を、春先には山菜を採るため、秋になるとキノコや栗、アケビなどの木の実を採るため、三々五々連れ添った人々が朝早くから魚釣り用の「びく」によく似た形の「エコカゴ」と呼ばれる籠を腰につけ、かまを手にして国分や一宮の山へ出かけていくのを、毎日見ておりました。里山である二上の山塊は、山麓周辺に住む人々にとって、食材を提供してくれる恵みの山であったわけです。
 明暦2年(1656年)、今から345年前、加賀藩主が領内の村々に公布した村御印(むらごいん)、今で言えば納税額確定通知書の内容を見ますと、米で納める年貢米のほかに、各村々の地場産物にかける小物成(こものなり)という税についての一項が記されております。その小物成の内容は村々によって違っており、山麓の村々では山役(やまやく)、役(ろうやく)、漆役(うるしやく)といった物産税をかけられている例を多く見ることができます。この小物成という地場物産税は、藩政時代の全期間を通して、年により額の増減、新規、廃絶等の違いがあるものの、明治維新後の税制改革まで存在していました。
 さて、山麓の村々にかけられていることが多かった山役とは、まきや炭にするために山から切り出して売買する木材による収益や、食材となる草木またはその種子・果実等による利益、田や畑にすき込んで、肥料にするために山で刈り取ってくる草によって得られる間接的な収益にかかる税のことです。漆役は、ウルシの木から取る樹液による収入にかかる税ですし、役は、ろうそくの原料となるハゼの木にかかる税のことです。
 二上山麓で山役、役、漆役等の小物成がかけられている村は、射水平野に面する側で、国分、一宮、古府、串岡、矢田、城光寺、東海老坂、西海老坂、須田等の村々、それから五十里、道重、百橋、板屋のいわゆる五十里4 か村で、山麓でありながら、上二上と下二上の2 つの村には、これらの税がかかっておりません。氷見平野側では、同種の小物成がかけられている村は、太田、西田、島尾、乱橋、小竹、それに現在の国道160 号線を挟んで、さらに10 か村を数えることができます。ともあれ、二上山麓の村々では、田畑耕作による米づくりは最も大切な生業でありましたが、山が本来備えている生産性も欠くことのできない生業としてかかわっていたことがわかります。
 藩政時代、山からの木材切り出しには厳しい制限がありましたから、木材を取る森林植樹は近代以後の産業と言えましょう。この森林植樹自体も、里山の生態系を大きく変えていった原因の一つに数えられますが、林業という専門の業種ではなく、山麓に住む人々にとって、もっと自由にもっと日常生活に深く入り込んだかたちでの山とのかかわりが、いつ頃、何が原因となってどのように変わり、消滅していったのか。また、元はどのような利用のされ方をしていたのか山の研究視点の一つにならないかと私は考えて。可能な限りさかのぼってみることは二上いるのですが、皆様はいかがでしょうか。


基調講演風景

■二上山の閉鎖性
 さて、二上山の持つ閉鎖性という、第2 の視点について述べます。二上山中に、先程の開会の言葉の中にもありました万葉ラインや、林道が造成されて山中を自動車が走り、ハイカーがどんどん山歩きできる現在の姿になる前の二上山は、海老坂から二上山頂へ、あるいは二上の射水神社横からの登山道などを除き、地元の人ならば登っていくことのできるルート以外、一般の人でも登ることができる道はごく限られておりました。
 最高峰で274 メートルしかないこの二上の山塊は、低いわりに谷はきわめて急峻で、峰と峰とを結ぶ道の多くは、山中に降った雨によって削られてできる自然の流水痕的な道しかないために、容易に人を寄せ付けない山でありました。そのためか、私が子どもの頃は、二上山で神隠しにあって人が帰らないとか、キツネにだまされたといった類の話を、よく耳にしたものです。
 二上山へ人々が自由に登ることができるようになる前、伏木地内では、犯罪検挙率がきわめて高かったと聞いています。なぜならば、伏木地内で犯罪が発生した場合、速やかに岩崎の岬付近と城光寺の橋際を押さえれば、伏木の地域外へ逃れることはまずできなかったというのです。二上の山中へ逃れて入ることが、きわめて危険なことであったのです。伏木の地域がこのように入りにくく出にくいということは、攻めにくく守りやすいということでもあります。それでいて、小矢部川と富山湾を船で利用すれば、限りなく広い地域と交流することができます。このことが、伏木の地を国府と定めて国庁を置き、あるいは、鎌倉時代の初期に守護所を置いた地政学的な理由といえるのではないかと思います。
 二上山塊の北東の端は、断崖になって富山湾に落ち込んでいます。古代、越中の国の守であった大伴家持は、この断崖の外側を磯伝いして、出挙(すいこ)の旅や布勢の湖の遊覧に行き来していたことが『万葉集』で読みとれます。また、17 世紀末に書かれた芭蕉の『奥の細道』や太田の武田家に残されていた「高方等諸事留帳」を見ますと、伏木から氷見へ行く道は岩崎で磯伝いになっており、しかも、よく写真に出てくる女岩の外を通っていたと記されております。
 また、現在は、国道160号線が走っている海抜52メートル、道幅25メートルの海老坂峠は、近世に巡見使道(じゅんけんしどう)、または御上使往来(ごじょうしおうらい)と言われ、当時で言えば第一級の国道筋の峠であったにもかかわらず、道幅がわずかに1.8メートル、海抜約60メートルの難所でありました。したがって、二上山塊を挟んで、射水平野側と氷見平野側とを結ぶ両端の幹線道路2 つともが、人の往来ができても陸上での物の動きには極めて不便な道、というよりも難所であったと言わなくてはなりません。
 そのため、この海老坂峠を経由した物の動きに対処するために、守山には、荷運びを専業とする歩荷(ぼっか)と称する人が沢山いたそうですし、氷見側では、柳田や乱橋で、荷車の後押しをして手間賃を稼ぐことが長く続いていたと伝えられております。つまり、二上山塊は、ともに射水郡の中にありながら、射水平野側と氷見平野側を隔絶する壁であったと言わなくてはならないのです。
 このことは、山を挟んで生活する人々に対して、まず文化の継承のしかたの面で大きな違いを生み、それが気質の違いとなり、生活の諸相に表れてくる違いを生み出しているように思われます。例えば、氷見平野側では、次々に入ってくる新しい文化は、そこから抜け出ていかず、どんどん蓄積されておりますので、古いものから現在に至るものがミックスされてごちゃごちゃに入り込んでいるのですが、射水平野側ではそれがスイスイと通り抜けていくという違いがあるわけです。
 また、二上山の山塊が壁となっているということは、気象の面にも表れています。明らかにそれとわかる現象に、しばしば私たちは行き当たることがあると思います。例えば、二上山塊を挟んで同日同時刻に両側で全く逆の気象現象が生じていること、つまり射水平野側で雪がどんどん降っているにもかかわらず、山を挟んで向こう側へ行くと全くなかったとか、向こう側では雨が土砂降りであるのにこちらに来るとからっと晴れているということも決してまれなことではありません。また、二上山頂を経由し、北東と南西に通じる山稜線を境界にして、空の色がくっきりと、あたかも物差しで線を引いたように異なる、つまり氷見側の方ではすっきりと青空になっているのに、射水平野側ではどんよりとした空になっている。その境が線を引いたようにはっきりわかるという現象を、私たちはよく見ることができると思うのです。
 私は、鼻が非常に敏感であるためか、氷見に勤務地があったときに自動車で海老坂峠を通りますと、空の色がくっきりと違う線のできるところまで来たとたんにくしゃみが出てきたり、国分のトンネルを出たとたんにくしゃみが出てくるなどといったことを、よく経験したものです。
 そのようなことは、たぶん二上山塊の両側に住んでいる人たちの生活習慣に、いろいろなかたちで影響を与えているだろうと思うのです。皆さん方でもお気づきでしょうけれども、山の向こう側とこちら側では、農家の家の屋根の形も間取りも違っております。獅子舞の舞い方にしても、言葉のしゃべり方やものの考え方も、明らかに山のこちら側と向こう側では違うことを敏感に感じとっておられる人は、多分沢山いらっしゃると思っています。
 この大きな違いを生み出すものが、山の形態とそれが生み出す気象に深くかかわっているとするならば、植生や生物の生態や分布にも必ずや影響をもたらしているに違いありません。つまり、二上山を一種の壁としてとらえて、その山塊の持つ閉鎖性が、二上山を挟んで存在する射水平野側と氷見平野側の自然や人文の諸相にどのような違いをもたらしているのかを分析していくことも、二上山を考えていくうえでの大きな視点になるのではないかと私は考えております。

■国見の山、二上
 二上山について考える第3 の視点は、国見、つまり国中を広く見渡すことができる山という視点であり、この点から二上山の性格を分析していくことです。また、それを逆転した仰ぎ見る山という視点から分析していくことを第4 の視点として取り上げたいと考えております。二上山の主峰は東の峰と西の峰で構成されていますが、西の峰は山頂面が平坦になっており、その形が袴の腰当ての形に似ていることから、袴腰とも呼ばれています。
 このような形態になったのは、中世から近世にかけての時代に、山頂を城として活用するために削られたからで、このために城山とも呼ばれていることは、皆様ご存じのとおりです。けれども、この山頂を元の形に戻しますと、峰が2つあるということで、二上山という名にふさわしい形になって見えることでしょう。
 私が知る限り、二上と呼ばれる山は、越中の二上山のほかに、大和葛城にある「にじょうざん」または「ふたがみやま」と呼ばれる山、備中岡山県の久米郡にある二上山、そして九州の日向高千穂にある二上山で、これらの二上山は、いずれも山の峰が2つからなり、しかも神の山としてあがめられているという共通点を持っています。また、二上山という名では呼ばれておりませんが、茨城県にある筑波山も2 つの峰からなっている神の山で、『万葉集』にも詠まれております。
 これらの2 つの峰からなる山の峰には、いずれも雄岳(おとこだけ/おだけ)、雌岳(おんなだけ/めだけ)という名称が付いており、双峰信仰としてとらえられます。越中国射水郡の二上山の二つの峰が「おとこ」「おんな」の名で呼ばれている例を、私は知らないのですが、もし皆様方の中でそう呼んでいることを書いた古い文献・文書史料や、伝承をご存じの方がおられたら教えていただきたいと思っております。
 さて、越中射水郡の二上山について残されている最古の現存資料が『万葉集』であることは、皆さんもご承知のとおりです。この二上山という山の名前は、越中の守として赴任してきた大伴家持が、故郷の大和にある、現在は「にじょうざん」とも呼んでいる二上山と山の形が似ていることから名付けられたのだという説があることは、二上山総合調査研究会が第1 回探究講座の資料として出されたものの中にも載せられております。
 けれども、『万葉集』の巻第16 には、越中国の歌として収録されている五七七調の旋頭歌(せどうか)の形態を持っている民謡が4首載っております。3881番から3884番までの歌です。この4首のうち、2番目の歌が「渋谿の 二上山に 鷲ぞ子産とふ 翳(さしは)にも 君がみ為に 鷲ぞ子産とふ」という歌で、ここに二上山という山名が出てまいります。4 首の越中国の歌のうち、3 番目と4 番目が「伊夜彦の山(いやひこのやま)」を詠み込んだ歌で、この「伊夜彦の山」というのは、現在の新潟県の西蒲原郡弥彦村にある弥彦山(やひこやま)のこととされています。
 では、どうしてこの山が越中国の歌に載っているのかと申しますと、昔、越の国であった地域が、越前、越中、越後に分国されたのは7 世紀の末、つまり、都が奈良に移り、私どもが今、奈良時代と呼んでいる時代になる少し前のことです。その当時の越中国域は、現在の射水、砺波、婦負、新川の4 郡に、現在は新潟県域となっている頸城(くびき)、魚沼、古志、蒲原の4郡が入って8 郡からなっておりました。
 伊夜彦山が現在の弥彦山であるとするならば、その山は越中国蒲原郡にあったことになります。しかも、この弥彦山付近の古代遺跡から、近年、奈良時代以前から越中国の射水郡に本貫(ほんかん)を持っていた豪族で、国造(くにのみやつこ)でもあった射水氏の名を記した木簡が発見されています。この木簡は、射水氏の勢力がこの蒲原郡の弥彦山の近くまで広がっていたことをうかがわせてくれる貴重な文書資料とされております。
 こうしてみると、越中の二上山という名は、大伴家持が越中に赴任してくる前からあったのであり、家持はむしろ故郷の大和にある二上山と同じ名前の山が近くにあるということを喜んで、この山について数々の歌を詠んだと考える方が順当なのではないでしょうか。
 ところで、いま、あなたがたはこの越中国射水郡の二上山で、現在は城山と呼ばれている西の峰に立って四囲を眺望していると仮定してみてください。まず、東の方を見てみましょう。射水平野、呉羽丘陵の向こう側に、常願寺川の川底と新川平野が見え、時として立山連峰の裾まで望むことができます。
 次に、南から西の方へ目を転じます。蛇行する小矢部川の河道と直流する庄川の河道、この2つの川によって潤され、時には泣かされてきた砺波の平野一帯、続いて射水南部丘陵、増山城のある栴檀山、そして牛岳、五箇山から飛騨に通じている山々、時には白山も姿を見せることがあります。
 それから北側、氷見平野を隔て、宝達山、石動山系の山々、つまり加賀と越中、能登と越中の境をなす国境の山々をずっと一望することができます。したがって、それらの国境の山の上でのろしをスーッと上げると、二上山の上からはっきり見ることができ、人馬のたてる砂煙によって、軍勢がどのように動いているかを望見することができるわけです。
 もう少し目を右の方へ転じていきますと、能登半島や日本海に広がっている富山湾の全域、それから富山湾の一番東の端である生地鼻まで見えます。言ってみると、二上山は、これまでどなたも口に出しておられないようですが、国見の山、つまり一国の全域を臨み見ることができる性格を持っている山と言えるのではないかと思います。
 地政学的に言えば、きわめて要衝と見なされる地点にこの山が存在しているわけです。このことこそが、二上山の周辺に古くから大きな豪族の勢力圏を生み出してきたのであり、日本海沿岸で最大の前方後方墳と言われる柳田布尾山(やないだぬのおやま)古墳をはじめとして、富山県内では最も多くの古墳が集中している地域を、この山塊を取り巻く一帯に形成する要因となっているのではないかと考えております。
 さらに、このことが、その後における越中の国の歴史と文化を生み育てていく原動力にもなっていくのではないかと考え、この国見山という性格を探究していくことは、二上山を考えていくうえでの大きな視点になるのではないかと思っております。


二上山周辺の古墳(二上山探究講座平成13年9月24日実施)

■仰ぎ見る山・二上山
 国中を臨むことができるということは国中のどこからも仰ぎ見ることができるということです。このことについては、第4 の視点として取り上げて詳しく申し上げたいのですが、今日あとから出られるパネラーの方に、このことについて触れられる方がおられますので、私は詳しくは申し上げないことにします。
 ところで、この仰ぎ見る山という点で、私は一つの経験をしています。射水郡小杉町の太閤山地区に、富山県で初めて発見された弥生時代の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)群が存在する囲山(かこいやま)という遺跡があります。方形周溝墓は、弥生時代から古墳時代の初期にかけての非常に古い、古墳が形成される以前のお墓ですが、私はこの囲山遺跡を発掘する作業に従事していたことがあります。そのときに、内部主体部、つまり遺体を葬った土壙(どこう)から発見される首飾りの小玉や他の遺物の出土位置を点検していますと、どの土壙でも遺体は西の方に足を向け、東の方に頭を向けていたらしい。つまり東の立山の方向に頭を向けて、西の二上山の方向に足を向ける形で葬られている姿を推察することができました。そのときに、そこにいた人たちがだれから言うともなしに、昔の人々にとって立山と二上山は、日が昇る立山、日が沈む二上山と見られ、ともに霊山として扱われていたために、人を葬るときの形もこうなったのではないかと言い交わしていたことを思い出します。
 二上山が、信仰の対象として広い地域から仰ぎ見る山であったばかりでなく、海上から仰ぎ見ながら自分の位置を定め、あるいはこの山にかかる雲によって明日の天気を判断するように人々の生活にとり大きくかかわる重要な役割を果たしていたのではないか。この第4の視点もまた、二上山を考えていくうえにおいて、とても大きな視点になるのではないかと考えております。
 今、私が研究している立場から二上山を見たときに、先程申しましたように、第1の二上山の恵みについて、第2の二上山の持つ閉鎖性について、第3 の二上山の国見山的な性格について、そして第4 の仰ぎ見る山について、この4つの視点はいろいろなかたちで研究の足掛りになるのではないか。そのことを申し上げて、今日のお話に代えさせていただく次第です。ご清聴感謝いたします。ありがとうございました。