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第3章、「悪王子」を探る 藤原氏の悪王子平安京

醍醐天皇陵

(1)『燿天記』

貞応二年(1223)に書かれた『燿天記』の記事によれば、日吉社(現・日吉大社)の禰宜(ねぎ=神職.神主の次位)であった祝部成仲(はふりべの・なりなか1099〜1191)が教示した伝えとして、悪王子は、

  • 藤原定国(866〜906)
  • 藤原有国(943〜1011)

の二人が崇敬していたと言う(『燿天記』は成仲の死後に成立)。原文は以下の通り。 

一、九悪王子事      

成仲宿禰云、二宮第三王子者、悪王子事也、当社者、長門入道寂超俗名為経之曽祖父定国所奉崇也、
或説云、悪王子者、アラ人神也、日野氏先祖有国宰相所崇也、

(日吉社神官である祝部成仲が云うことには、二宮(現・東本宮の主神)の第三王子とは、悪王子のことなのである。この神は、長門入道こと寂超、すなわち藤原為経の、曽祖父である「藤原定国」が崇奉していた。
ある説では、悪王子は「現人神(あらひとがみ)」である。日野一族の祖である弼宰相の「藤原有国」が崇奉していた。)

『耀天記』(『神道大系』神社編二十九日吉p50〜51)


この二人を中心にした、「悪王子」信仰の時代背景を探ってみた。

(2)藤原定国(866〜906)

貞観八年(866)、 生。〔以下、官職・位階は主に『公卿補任』による。( )内の数字は月)〕 

父は藤原高藤(838〜900)。母は宮道弥益の娘・列子(烈子)。高藤は、従二位・内大臣。

姉に醍醐天皇の生母・胤子、弟には「百人一首」で有名な藤原定方がいる。定方の曾孫にあたる藤原宣孝は、紫式部の夫。定方の家系から「勧修寺流」または「高藤流」と呼ばれることになる一流が後世に続き、その末裔として戦国武将の「上杉氏」などを輩出する。

さて、定国の両親の若かりし頃の‘ロマンス’が『今昔物語集四』巻第二十二に滔々と記されている。

―鷹狩りに出かけた高藤が突然の雨に遇い、偶々、山科のとある邸宅へ駆け込んだ。これが宇治の郡司・宮道弥益(みやじの・いやます)の家で、その娘「列子」と結ばれ、結婚の約束をした。この家の在り処がわからぬまま数年へだてたのちに、高藤は「列子」と、雨宿りの夜に知らずもうけた長女・「胤子」の母娘を迎えに行った。なんとも‘ドラマチック’な顛末。

定国の姉である胤子は、やがて宇多天皇の女御(承香殿女御しょうきょうでんのにょご)となり、彼女の産んだ親王が後年、即位して醍醐天皇となった。

定国の祖父・宮道弥益の山科の邸宅(京都市山科区)は、のちに醍醐天皇によって「勧修寺」(かじゅうじ)という寺院とされた。近傍には宮道神社が(新しい風情ではあるが)、藤原高藤の一族を祀っている。醍醐天皇陵は山科の南方、醍醐の地に‘後山科陵’として営まれる。

定国の室の一人は藤原有実の女(娘)で、二人の間の娘・和香子(大将御息所.たいしょうの・みやすんどころ)は醍醐天皇の女御である。高藤と定国・定方の父子は宇多天皇と醍醐天皇の外戚となったことによって、破格の立身出世を果たしたのである。


仁和三年(887)、 補・蔵人(4)、任・左衛門少尉(2)

定国が初めて官を得たこの仁和三年(887)、‘義兄’である宇多天皇が即位している。その先はトントン拍子の昇進ぶりである。すなわち、 

寛平二年(890)、 叙・従五位
〃三年(891)、 任・侍従(3)、宣旨禁色(蔵人)(4)
〃四年(892)、 任・右衛門佐(5)
〃五年(893)、 兼・春宮少進(4)、兼・内蔵頭(5)
〃七年(895)、 兼・春宮大進(3)、叙・従五位上(8)
〃八年(896)、 叙・正五位下(1)、任・左少将(1)(兼官如元)、去・内蔵頭(3)
〃九年(897)、

兼・備前介(1)、叙・従四位下(3)、補・蔵人頭(7)、叙・従四位上(7)、転・左近権中将(9)

この寛平九年(987)、三十歳の宇多天皇は譲位して、胤子の産んだ醍醐天皇が即位。

〃十年(898)、 兼・近江権守(1)
昌泰二年(899)、 任・参議(2)(中将如元)、任・権中納言(閏12)、叙・従三位
〃三年(900)、 左中将

醍醐天皇の治世下、この昌泰三年(900)のほんの短い時期(一月〜三月)だけだったが、

「内大臣・藤原高藤、左大臣・藤原時平、右大臣・菅原道真」

という‘豪華な’キャストが並んだ(高藤は同年三月十二日に没)。

〃四年(901)、 左中将、兼・右近大将(1)

この昌泰四年(901)一月二十五日に事件は起こされた。藤原時平・藤原定国・藤原菅根らの工作や讒言(ざんげん)などもあって、菅原道真が大宰権帥(だざいの・ごんのそち)に左遷されたのである。これを“昌泰の変”という。息子たちも配流とされて道真の一家は離散。

また道真の最終官位は右大将・右大臣であったが、その左遷後は、右大将には藤原定国が就任した。また右大臣に源光(みなもとのひかる)が任じられた。

或いはこの時期でもあったろうか、「泉の大将」と称された定国が三十六歌仙で知られる壬生忠岑(みぶの・ただみね)を随身とし、よそで酒を呑んだ勢いにまかせて真夜中に左大臣・藤原時平(871〜909)のもとを唐突に訪ね、時ならぬ夜中の宴に興じたというエピソードが残されていて、時平と定国との一方ならぬ「親密さ」を示している(『大和物語』百二十五)。


延喜二年(902)、 任・大納言(1)、右大将如元、兼・按察使(2)
〃 三年(903)、 従三位、大納言、右大将、按察使

この延喜三年(903)に、任地すなわち配流先の太宰府の地にて、菅原道真が没している。

道真は、定国にも‘怨み’を含んでいたと伝えている。約八十年後の永観二年(984)六月二十九日の安楽寺(のちの太宰府天満宮)に降りた道真の‘託宣’によれば、

昔依讒言放我之日。大臣時平卿。光卿。納言定国卿。菅根朝臣。偽称勅宣。召陰陽寮官人。…令呪詛我。

と、道真を害した人物の中に「定国」の名前がしっかりと登場している(『扶桑略記』)。

〃 四年(904)、 従三位、大納言、右大将、按察使、兼・春宮大夫

延喜五年(905)に時平らと共に『延喜式』の編纂を受命したが、定国は、翌六年に没。

〃 六年(906)、  〃 、 〃 、 〃 、 〃 、 〃 。薨(7.2) 四十 号・泉大将

この定国の「死」をきっかけに、以後、〈奇ッ怪な事件〉が頻々と勃発することになる。

903年に怨みを呑んで没した菅原道真の「祟り」とされる出来事は、概ね、以下の通り。

906年…藤原定国が死亡  (道真の「怨霊」の犠牲者の‘第一号’と目されている。)

908年…藤原菅根が落雷で死亡  (道真の追い落としに加担。醍醐天皇の侍読。)  

909年…藤原時平が死亡  (“昌泰の変”の首謀者。‘道真の祟り’との風評)

913年…源光が泥沼で溺死  (道真の追い落としに加担。道真の後任の右大臣)

923年…保明親王が急死  (皇太子。時平の妹・穏子と醍醐天皇の子。21歳)

925年…慶頼王が夭折  (皇太孫のち皇太子。時平の娘・仁善子と保明親王の子。5歳)

930年…清涼殿に落雷。大納言・藤原清貫が即死。 (清貫は太宰府で道真を尋問)                  

〃 年…醍醐天皇が、譲位の一週間後に死亡 (落雷事件の衝撃から病臥)

936年…藤原保忠が狂死  (時平の長男)

939年…菅原道真の神勅を受けた平将門が、関東で“新皇”と称す  (『将門記』) 


こうして、菅原道真の「怨霊(おんりょう)」は、都で疫病や災害を伴って、荒れ狂った。

この「祟り」を鎮めるため、京都の北野に「北野天満宮」が誕生する。北野天満宮は、時平の弟である藤原忠平と、忠平の子の藤原師輔によって、その後も整備されていく。

さて、この「祟りの神」すなわち「御霊」としての天神信仰の展開の中で、藤原定国は些か情けない場面に登場させられる事になる。

―僧の道賢(のちに日蔵)が頓死(急死)して冥界へ行くと、金峯山の蔵王菩薩に案内されて鉄窟に至る。と、一軒の茅屋があり、その中に四人の人物が居た。一人は、衣は有るには有るが、わずかに背中をおおうだけの姿。余の三人は、それすらなくて、裸であった。四人は共に、真っ赤に燃える灰の上にうずくまっていた。獄領が言うことには、衣有る一人は、延喜帝(=醍醐天皇)である。余の裸の三人は、その臣下だった者たちである、と。…

これは、『道賢上人冥途記』(『扶桑略記』)に拠ったもので、裸の三人とは、藤原時平・藤原定国・源光のことだとされている。


藤原定国について言えるのは、道真の「祟り」のお蔭で醍醐天皇をも巻き込んでの「有名人」となっている事実である。「勧修寺流」にあっては、きわめて「突出した伝説」を有しているのが、家流の‘祖’とみなされる「高藤」と「定国」の二人である事は、存外重要だと思う。

つまり、氏寺たる勧修寺を中核とする「勧修寺」家一族にとっての最大の“カリスマ”が、「藤原定国」であったと考えられるのである。「あの天神を!」と語られ続けたものであろう。

 

(3)藤原有国(在国)( 943〜1011)

有国は、親鸞聖人や日野富子など後世に有名人を輩出した「日野」氏一族の‘祖’である。五十三歳までは、藤原在国。藤賢。勘解由(かげゆ)相公(=勘解相公)、弼(ひつ)宰相と称す。

天慶六年(943)、

藤原輔道(前豊前守・太宰大弐・正五位下)の四男に生まれる。
母は、源俊(みなもとの・すぐる)の娘。

文章生となり、菅原文時(道真の孫)に師事。終生のライバルともなる「平惟仲」とは同窓。学兄に慶滋保胤が居た。

康保元年(964)、「勧学会」の創立メンバーとなる。勧学会とは、文人貴族二十名・天台僧二十名が会して法華経を講じ念仏を唱じ漢詩文を詠ずる“念仏結社”であった。慶滋保胤・源為憲・藤原在国・平惟仲・藤原惟成・賀茂保章などが参加している。

康保四年(967)、 補・東宮雑色
安和二年(969)、 為・蔵人所雑色
天禄三年(972)、 任・播磨大掾(蔵人所労)、補・冷泉院判官代

この年に、勧学会のメンバーに多大な影響を与えた空也(903〜972)が没している。

また同年、祇園社が日吉神社(日吉大社)の末社となる。 

天延二年(974)、 五月下旬、秦助正の邸に「悪王子」が示現。大政所の地が与えられる。
祇園感神院が、興福寺末から延暦寺末になった。

とはいえ、この事に関する在国(当時、三十一歳)の関与を証する記録は見当たらない。

貞元二年(977)、 叙・従五位下(築朱雀院垣並造水亭功)
〃 三年(978)、 任・石見守
天元二年(979)、 叙・従五位上(石清水行幸依書御願文功所功叙也)
〃 五年(982)、 「石州の秩(ちつ)罷(や)み、秋の初めに洛に帰る。
秋より冬に曁(いた)るまで宣風坊(三条)の宅に閑居す」(『本朝麗藻』)
永観二年(984)、 任・越後守、東宮昇殿

同年、花山天皇が即位。天皇の乳兄弟である藤原惟成が重用され、有国は惟成に「名簿」を提出して登用の働きかけをしている(『江談抄』)。

寛和二年(986)、 以本宮侍臣昇殿、叙・正五位下(石見功)、任・左少弁(停・越後守)、補・蔵人

僅か二年で花山天皇が譲位。藤原道兼(兼家の子)に誘われて出家してしまう。藤原兼家の策謀があったと言われる(『江談抄』)。これにより兼家が外祖父の一条天皇が即位。

永延元年(987)、

転・右中弁、叙・従四位下(此日行幸枇杷第以家司有此賞)、昇殿、
叙・従四位上(去八日石清水行幸行事賞)、
転・左中弁 (cf.平惟仲…右中弁)

このころ、在国は藤原兼家(道長の父)の「家司」になったのであろう。平惟仲もまた同家の家司になっている。『栄花物語』に「有国は左中弁、惟仲は右中弁にて、…」、また兼家が「有国・惟仲をば左右の御まなこと仰せられける…」とある。

永延二年(988)、 兼・信乃権守、兼・周防権守
〃三年(989)、 叙・正四位下(春日行幸行事賞)、転・右大弁、兼・東宮権亮
永祚元年( 〃 )、 (3.19)左中弁在国。北野天満天神の託宣に奉仕す(『小右記』)。

また、第二十代天台座主の余慶への“永祚の宣命”。一回目は山門徒から受け取りを拒否され、二回目の使者(10.29)として在国が立った。

その後、山門・寺門が分立。「悪王子」が示現して教円を推した(『山王利生記』)とされる“長暦の争拒”へと進み、遂には完全に分裂する。

永祚元年( 〃 )、 任・勘解由長官(11.28)、弁亮如元、  
〃二年(990)、 補・蔵人頭(5.14〜8.30)
叙・従三位(8.30)勘解由長官如元、元・蔵人頭、元・右大弁、非参議

この年、余命少ないことを知った兼家が出家。兼家は病床に在国と惟仲を呼びよせて、関白を誰に譲るべきかと意見を聞いた。在国は、花山天皇の譲位(すなわち一条天皇の擁立)に功績のあった道兼(道隆の弟。道長の兄)を推挙。在国の妻・橘徳子は一条天皇の乳母である。惟仲は、長幼の順を主張して兄の道隆を推挙した(『江談抄』)。が結局は、道隆が関白・摂政(5)となった。兼家が没して(7)以降は、在国は道隆に嫌われ、排斥されること数年に及んだという(『栄花物語』)。

こうして、道隆の娘・定子が中宮(10)となる(‥その家庭教師が、清少納言)。

正暦二年(991)、 勘長官、(2.2)秦有時「殺害事件」に連座して除名

「除名従三位勘解由長官藤原朝臣在国。大膳属秦有時被殺害之間、依有造意之聞也」

『日本紀略』正暦二年(991)二月二日条

正暦三年(992)、 八月日復本位 
〃四年(993)、 〔『公卿補任』にはこの年、名と位階のみ記載〕

在国が「干されて」いたこの年、菅原道真に「正一位、太政大臣」が追贈され、菅霊の祟りも一段落した。同年の大宰府には、

大弐に藤原佐理(944〜998能書家。小野道風・藤原行成と共に三蹟と称された。実頼(藤原忠平の長男)の孫)、
少弐に藤原宣孝(952〜1001定国の弟・定方の子孫。紫式部の夫)、
権少弐に藤原孝友(藤原有国の兄)などが赴任して居た。

(「北野天神御伝并御託宣等」『神道大系』所収)

〃五年(994)、 勘長官(8.5)、非参議 
〃六年(995)、 勘長官、非参議

この年に道隆が没(4)。道長が内覧になる(5)や、在国の「活躍」が始まる。

正暦六年(995)、 大宰大弐(10.18)

この年、太宰府へは室・橘徳子(=橘三位)を伴う(『栄花物語』)。徳子は一条天皇の乳母で、才色兼備の女性として知られ、紫式部も一目置く存在であった(『紫式部日記』)。               

大宰府に貴族などの私的な家政機関の‘政所’を初めて置いたのが在国である。勿論、背後には藤原道長の強い意向があった。在国は、大宰府での任官中「道長の保護下に入り、自ら蓄財のため不正利益を貪る行為も多く、その利益から権門に多くの献物を行い、それにより出世していったといわれ、平安中期に黙認された売位売官の典型的な例ともなった(『本朝麗藻簡注』p.399)」と、厳しい評価が下されている。彼は日宋貿易によって私腹を肥やしていったのである。

また一方で、太宰府天満宮に今も残る「四度宴」のうち、一月二十一日に催される「内宴」は、『安楽寺草創日記』によれば「藤原在国」が始めたとされる(『天神さまの起源』)p.66)。宮中の行事を取り入れたものらしい。


長徳二年(996)、 勘長官、大宰大弐、非参議 正月に、在国から「有国」へと改名。正三位

その同じ月に、大事件が勃発した。道長の兄・道隆の二人の子息、伊周と隆家が女性問題のトラブルから花山法皇を侍者に射させた(1)というもので、藤原伊周は大宰権帥に配流となる。この時に太宰府にあって伊周を受け入れたのが、大弐の有国であった。有国は伊周の父・道隆から受けた「排斥」の恨みを忘れて親身に世話を焼いたと伝える(『栄花物語』)。

長徳三年(997)、 正三位、大宰大弐、非参議
〃 五年(999)、  〃 、  〃  、 〃 、弾正大弼
長保三年(1001)、 任・参議、弾正大弼如元、従二位(東三条院御賀院司賞)

太宰府赴任からの帰郷後は、道長の「家司」として重んぜられた。一方、同年には平惟仲が大宰(権)帥として異例の赴任を果たす。

長保四年(1002)、 兼・伊与権守
〃 五年(1003)、 兼・勘解由長官 
〃 六年(1004)、 従二位、勘解由長官、伊与権守 
寛弘元年( 〃 )、 「勧学会」を法興院(兼家の二条院の元邸宅)で再興。藤原道長(左相府)の
助力によるところが大きい(『天台仏教と平安朝文人』)。
寛弘二年(1005)、 従二位、勘解由長官、伊与権守、参議 

寛弘二年(1005)に、宇佐八幡宮が「大宰帥(平惟仲)らの非法」を訴えたことに端を発する“長保事件”によって失脚した平惟仲が太宰府で没する。惟仲は前年の寛弘元年(1004)に厠(かわや=トイレ)で腰を折って重態に陥っていたというが、長保事件は、有国と藤原道長が手を組み背後で操っていたと考えられている。

寛弘三年(1006)、 従二位、勘解由長官、参議 
〃四年(1007)、 兼・播磨権守 
〃五年(1008)、 従二位、勘解由長官、播磨権守、参議

後一条天皇(母・藤原彰子、外祖父・道長)誕生のこの年、「碁の負けわざ」(=碁に勝った者への饗応)する「播磨守」として『紫式部日記』に記載される(一説に播磨守は、平生昌とも)。

〃六年(1009)、  〃 、  〃  、 〃 、〃
〃七年(1010)、  〃 、  〃  、 〃 、〃、兼・修理大夫
〃八年(1011)、 従二位、勘解由長官、修理大夫、参議。 薨(7.17)

有国の死後、長元七年(1034)に「勧学会」が再々興された。これは、第二十七代天台座主の慶命の尽力によるものであった。慶命は、藤原有国の甥(兄・孝友の子)である。


・藤原有国の在世の期間 …… 天慶六年(943)生

−−−−−−−→ 寛弘八年(1011)没
   
・秦助正の夢に、「悪王子」が示現した時期 …… 天延二年(974)  

このように、有国の在世期間中に「悪王子」が示現し、また、祇園社が日吉社の末社となり、祇園感神院は比叡山延暦寺の末寺となっているのである。さらに「悪王子」が、日吉社において「山王廿一社」の中に加えられているのは、決して只事ではない。藤原有国ほども有力な「公卿」の働きかけがあった、と考えるのが妥当であろう。

 

(4)藤原為経(寂超) (1115?〜1180?1187?)

寂超は、定国や有国と同じく藤原北家の血を引く天台宗の僧にして歌人。『今鏡』の作者として著名である。藤原為忠の三男で俗名は藤原為経(初め盛忠。保延元年(1135)ころ改名)。

さて、為経(のちに出家して寂超)は概ね以下の通り。

天承元年(1131)には、六位蔵人になっていた。

長承元年(1132)、 蔵人左近将監
〃 三年(1134)、 従五位下 このころ筑前権守か
保延元年(1135)、 備後守 この年に改名か
〃 四年(1138)、 長門守
( 〃 六年(1140)、 佐藤義清(のりきよ)が出家。西行と号す)
康治元年(1142)、 美福門院加賀との間に、長男の隆信をもうけた。

― 藤原隆信は「似せ絵」の名人として今に知られ、神護寺蔵の「伝・源頼朝像(国宝)」などの作者に擬せられる。建礼門院右京太夫との熱烈な恋が知られ、歌人としても著名。

( 同じ康治元年(1142)に、待賢門院璋子(1101〜1145)が出家。)

〃 二年(1143)、 正五位下 皇后宮少進(皇后は藤原得子。のちの美福門院) 
(5.10)出家、比叡山に登る(『台記』『本朝世紀』)。日想房寂超と称す。

為経は、息子の隆信が生まれた翌年に出家した。

この年から、美福門院加賀のもとへ藤原顕広(のち改名して、俊成)が通う。

(久安元年(1145)、 待賢門院が没。四十五歳)
久安四年(1148)、 為経の妻であった加賀が、藤原顕広の女子(のちの八条院三条)を産む。

隆信は、顕広に養われることになる。加賀は応保二年(1162)には、藤原定家を産んでいる。

(久安五年(1149)、 隆信が美福門院蔵人、藤原親忠(加賀の父)は大宰少弐兼筑前守となる。)
保元元年(1156)、 (7)保元の乱

この年『後葉集』を撰ぶか?これは、新院(=崇徳上皇)が『詞花集』に不満を感じて改撰を命じたものの、藤原顕輔が没して成らなかったからであった(「後葉集序」)。

七月二十三日、「崇徳院」(=崇徳上皇。1119〜1164)が讃岐に流された。崇徳院は時の朝廷に対して激しい怒りのあまり、写経した本に自分の舌を噛み切った血で呪いの言葉を書きつらね、自らを“日本国の大魔王”と称して、爪や髪の毛を伸ばし続けたあげくに、‘夜叉’のような姿となって崩じたという(『保元物語』など)。

…藤原為忠の息子のうち次男以下の、寂念・寂超・寂然の三兄弟 (俗名は、藤原為業・為経・頼業) は、「大原三寂」または「常盤三寂」と称され歌人として知られていた。歌友には西行を始め、藤原俊成(顕広)・平忠度・源頼政ら、『平家物語』に事蹟が記され、名を残した面々が揃っていた。


さて、この寂超が1170年ころに著したとされる『今鏡』に、「藤原有国」が登場する。「碁」の話題に続いて書かれているから、『紫式部日記』の「播磨守」を連想したのであろうか。

『今鏡』の巻九「むかしがたり(いのるしるし)」によれば、

―勘解由長官の藤原有国が若い頃、父の輔道の赴任に伴って九州へ行った。その地で、父が病死。有国は「泰山府君」の祭を行って、父親を生き返らせたのである。父の言うことには、閻魔庁へ行ったところ、「立派な供え物がなされたからには、輔道は蘇生させるべきである。だが、代わりに有国を閻魔庁に召さねばならない。正式の陰陽師でもないのに「泰山府君祭」を勝手に行ったことは、罪科に問われねばならないからだ。」ということであった。ところが、ある人が、「親への孝養心がある上、こんな遠い国では陰陽道に長けた人も見つからなかったろうから、重い罪とは言えない。」との意見を述べてもらったお蔭で、父(輔道)も子(有国)も許されたのだということであった。それは陰陽道の才も位も高い人の意見であった。

ついに、「定国」と「有国」との「共通点」を見つけ出すことが出来た。すなわち二人は共に、「父親が一度死んでのち蘇生する」という、不思議な「共通体験」をしているのである。

定国の父(藤原高藤)の場合は、『江談抄』(三九)「野篁は閻魔庁の第二の冥官為る事」では、

― 藤原高藤が、急死した。あれよあれよと見るうちに、地獄の閻魔大王のもとへと連れて行かれ、見ると、閻魔庁の第二席に小野篁が坐していた。篁のおかげで自分は蘇生できたと言い、高藤は庭におりて篁を拝んだ。

冥界(地獄)へ自在に行き来する「小野篁」のイメージは、地獄から「智賢」阿闍梨を連れ出して蘇生させた「悪王子」(「日吉山王利生記」)と深く通じるものがある。

そして、有国の同時代人には陰陽道のスーパースター「安倍晴明」(921〜1005)が居た。

この世と地獄を往来出来る陰陽道の能力は、悪王子を考えるとき、非常に重要な「要素」となっていることは間違いない。


「勘解由相公 藤原有国伝 ― 一家司層文人の生涯 ―」(『王朝の物語と漢詩文』所収)に、驚くべき事実が記されていた。

「有国の母については、活字本の尊卑分脈には近江守源守俊の女というが、これは、前田家本尊卑分脈が源俊女とするのが正しい。(角田文衛氏の御教示による)。有国は頼光と従兄弟に当るのである。」(同書p.118〜119)

天延二年(974)に秦助正の邸に示現した「悪王子」は、その「お使い」であることを示すために、邸から祇園社まで「蜘蛛の糸」を曳いていた。秦助正の邸の裏には「蜘蛛塚」があった。さて、この同じころに、「土蜘蛛退治」で勇名を馳せたのが「源頼光」である。

そして、源頼光(948〜1021)と有国とは、母親が姉妹(源俊の娘)の「従兄弟」同士だったという訳だ。ここで、

悪王子 ( 蜘蛛頼光 ) 藤原有国

となる「説話形成モデル」の連環図式が、完成するのである。

しかも有国は、死んだ父親すらも生き返らせることが出来るほど「陰陽道」に造詣が深かった。青年期の学友であり「勧学会」を共に起こす「慶滋保胤」は、陰陽博士・賀茂忠行の次男である。「賀=よし→慶」、「茂=しげ→滋」との通音換字による改姓の以前、彼は「賀茂保胤」であった。保胤は家業の陰陽道を捨てて紀伝道へと進み、三男の賀茂保章もまた「勧学会」の結衆であった(『天台仏教と平安朝文人』)。その父・忠行の家業である「陰陽道」を継いだのは長男の賀茂保憲で、その兄弟弟子に「安倍晴明」があったことはよく知られている。

―このように、有国の周辺には「陰陽道」の気配が殊更に色濃い。

 ゆえに、《藤原有国が、‘地獄へも行き来し、蜘蛛を神使とする’「悪王子」を信奉した》とされる『燿天記』の記述を、いま私は、漸く肯定することが出来るのである。


(5)祝部成仲 

祝部成仲(1099〜1191)は、日吉社禰宜、惣官、正四位上、大舎人頭、石見介と『耀天記』にあるが、詳しい事は判らない。神職にして歌人。日吉大社社家(右方)の「樹下」家の‘祖’。歌人としては、寂超と加賀との子である藤原隆信とも交流があった。

久安三年(1147)、 「左京大夫顕輔歌合」に初めて参加
仁平元年(1151)、 『詞花和歌集』に入集して初めて勅撰作者となる
保元二年(1157)、 従五位下
保元〜平治の頃、 石見介
仁安四年(1169)、 正四位下
承安二年(1172)、 正四位上
文治四年(1188)、 九十賀を結構(『百錬抄』)
建久二年(1191)、 (6)大舎人頭、(10)没〔93歳〕

さて、成仲は、自分とほゞ同い年であった法性寺関白・藤原忠通の‘蔵人所’に参仕していた事実は、我々にとって極めて重要である。そうであったからこそ、同じ藤原氏の「定国」や「有国」が「悪王子神」を信奉していたという情報を知り得ただろうからである。


成仲や寂超の生きていた平安時代の最末期は、「院政期」と称される。受領となって巨万の富を得ていた「中流貴族」たちの中でも、特に大きな勢力に成長していた一族に、「勧修寺」・「日野」・「徳大寺」などがあった。

「勧修寺(高藤)」流藤原氏の‘祖’には「藤原定国」がある。

「日野」家(内麿流)藤原氏の‘祖’には「藤原有国」がある。

―‘祖’とはカリスマ性に包まれた伝説豊かな先祖といった意味である。同じ論理で、

「徳大寺(閑院)」流藤原氏の‘祖’には「待賢門院璋子」が相応しいだろう。傾国の美女にして後に“保元の乱”の因をなす崇徳・後白河の両天皇の生母だからである。


没落しつつある関白家に身を置いていた祝部成仲にとって、「勧修寺」家や「徳大寺」家といった中流貴族の台頭は、決して歓迎できるものでは無かったであろう。

だから成仲は、彼等の‘祖’に対しては、聞くもおぞましい醜名を持つ「悪王子」をこそ崇敬させたのかも知れない。