トップページに戻る

(1)二上山の悪王子

 

悪王子社(前の御前。二上山々中)

 自動車の場合、国道160号線の海老坂から道路標識にしたがって「万葉ライン」で二上山に登る。坂道を登り切ったら‘守山城址’。さらに進んで山頂足下、右手に駐車場がある。その脇、下へと続く小さな道を右折すると、すぐにまた駐車場。ここで車からは降りて「万葉植物園」への小高い道を少し歩けば、左側に、「悪(あく)王(おう)子(じ)社」が見えて来る。この社は“前(まえ)の御(ご)前(ぜん)”とも呼ばれ、山頂に祀られている日吉(ひえ)社(しゃ)を“奥の御前”と称する。…ただし、二上青少年の家から歩いて登れば、ほゞ一本道のうえ、標識があるので判り易い。

 さて、この『悪王子』(あくおうじ)という神を、これから5回に渡って各方面から、紹介するとしよう。二上山に祀(まつ)られておりながらも、高岡市民には今ひとつ馴染(なじ)みの薄い『悪王子』という神様が、何とも意外な顔を持っていることに、かならずや驚かされるであろう。

 では先ずは、二上山から。


 常日頃、私が語っている「悪王子の伝説」を、やゝ講談小説風に紹介しよう。

 その昔、二上山には、強烈な力(ちから)を持つ神が住んで人々を支配していた。この二上の神は、太陽を照らし、雨を降らせ、川の流れを司(つかさど)って、穀物を豊かに実らせていたのであった。だが、神は、食べ物の恵みを人々に与える代償として、人身御供(ひとみごく)を要求した。すなわち、毎月の1日、8日、13日、23日、28日の五回、越中四郡つまり現在の富山県一円から、うら若い乙女をこの二上の神へと、捧げねばならなかったのである。月に五人、年に六〇人の娘達が、親もとから居なくなって行く。越中の民は、大いに嘆き、悲しんだ。その怨嗟(えんさ)の声は、やがて帝(みかど)の耳にまでも達し、ついに、「越中の邪神、討つべし」との勅(ちょく)命が下された。神の追討を任されたのは、俵藤太(たわらのとうた)こと藤原秀郷(ひでさと)であった。秀郷は、琵琶湖の龍神を助けて三上山(みかみやま)の大百(む)足(か)虫(で)を討ち、また一時期、関東に覇(は)を唱えて「新皇」を自称した平将門(まさかど)を討ったことで有名な、稀代の英雄である。

 秀郷が、現在の高岡市東五位あたりに差し掛かった時であった。とある一軒屋から、なにやら泣き声が聞こえてくる。不審に思ってその家を覗(のぞ)いてみると、年老いた両親が一人の娘を間に挟んで、涙ながらにかき口説いている。聞けば、「二上の神」よりの白羽の矢が、先日この家に立ったのだという。されば早速と、娘を人身御供に差し出さねばならぬ決まりである。「なぁに、案ずるには及ばぬ。」秀郷は娘の打ち掛けを借り、頭からすっぽり被(かぶ)って身を包んだ。「娘と入れ替わって、我(われ)が行き、これより、二上の邪神を、討つ。」

 人身御供を乗せた輿(こし)は、村人に押し担(かつ)がれて、しずしずと進む。やがて一行(いっこう)は「荻(おぎ)布(の)」の村へと入(は)いる。村の裏手の小川に架かっている「俎板(まないた)橋(ばし)」に、娘を、輿もろともに奉置する慣(なら)わしである。肩から輿をおろした村人たちは、もう、後も見ないで走り去った。

 二上山に陽(ひ)が落ちて、綾目(あやめ)も分(わ)かぬ夕(ゆう)まづめ、生臭ぁい一陣の風もの凄く、ずぉ〜んと吹いたと見る間に、輿は人身御供を乗せたまま、二上山の頂きへ〜と、運ばれ飛んだ。

 それからどれほどの時間が経ったものか…。真っ暗闇のなか、秀郷は右手に刀の柄、左手に剛弓を握りしめて、あたりの気配をずっと窺(うか)がい続けている。と、幽(かす)かに空気が動いた。

 やがて、 ズズザザァ〜ッッ、ズズザザァッッ〜と何者かが押し寄せてくる気配。

 「すわっ。」自慢の弓に手早く、矢を番(つが)える。しばし待つや、巨大な二つのヘッドライト(ま、お話ですから…)がヌソリノソリと近づいて来る。

 「出たなぁ〜。 邪(よこし)まなる神よ!」

 秀郷、剛弓をば満月のように引き絞って、ハッシと射る。射ても、また射に射ても、手ごたえは無い。  

 既に残り矢は、わずかに一ッ本。これにペペェッと唾(つば)を吐きかけ、「南無三(ナムサン)」と、腕ちぎれんばかりに絞ってヒョウ!と射る。ズブヌッ、とこれには手ごたえが確かにあった。あとは刀を抜いては闇雲に、切って切って切りまくった。

 …ふと我に返ると、はや薄(う)っすらと曙に、東なる剣(たち)山(やま)よりサァッーっと射(さ)す一条の朝日。見れば邪まなる神の正体は、なんと、二上山を七巻き半もかき抱く、大蛇であった。その傷口からはゴボリゴボゴボリと血が吹き、沸(わ)きこぼれ、草木を燃やして麓へと流れ落つ。


日吉神社(奥の御前。二上山々頂)

 「そやさかいで、二上山の登山道っちゃぁ、今ででも赤ぁい色ぉしとっがちゅ。」と古老は今に伝える。

 討たれた二上の神は「悪王子社」として前の御前に鎮(しず)められ、秀郷は二上山々頂に奥の御前と祀られてその見張りをしているのだという。二上の神は、だが、死んだのではない。それが証拠に、悪王子社の周(まわ)りを、息を止めたまま七回り半走り抜けることが出来たら、即座に神が復活すると言い伝えている。また、四月二十三日の二上の祭礼に設ける「築山」は、日が暮れる前に壊してしまわないと、招かれなかった悪王子神が取り憑いて大暴れし、その年は天候不順となって米が不作になる、とも伝えている。

宝泉寺(高岡市下麻生)

 高岡市荻布の天満社には、俎板橋の片割れが、今に残されている。また、高岡市下麻生の本覚山宝泉寺(真言宗)には、人身御供となった乙女らの菩提(ぼだい)を弔(とむら)う為に、宮池市左衛門によって寄進された観音像がある、ということだ。              

 

 


 富山県高岡市の北方に、二上山(標高274m)が独立した山塊を成して、概ね、氷見市との境界になっている。山頂に「日吉社」が祀られた時期は不明ながら、隣接地区の氷見市朝日山には院政期(平安時代末期)に、滋賀県大津市の日吉大社に属した“日吉神人(じにん)”によって日吉社(=山王社)が勧請されたということから見て、ほゞ同時期に、やはり同じく“日吉神人”によって二上山にも「日吉社」が祀られたものと思われる。

 日吉社は、“山王廿一社”と称する「神々の集合体(‘惣社’というべきか)」単位で、全国に勧請されている。…因みに“山王”とは、中国の天台山の鎮守で、日本へもその名が最澄(伝教大師)によって移入された。即ち、比叡山延暦寺の鎮守である日枝社(→比叡社。=日吉(え→よし)社)こそが、天台宗の鎮守の山王、ということになって定着したのであった。(比叡山は、『古事記』に日枝山と載る。)

 この廿一社の中に含まれた形で、その下七社の中の一社として、“悪王子社”は二上山へやって来たであろうと思われる。ところが、この神は何故か二上山において、‘特異’としか言いようの無い神格へと成長して行くこととなった。つまり、“悪王子神”こそが、太古以来の二上の神(=地主神)であったとされ、また本地仏までもが本来の愛染明王から、仏教世界では北方を守護する武神の“毘沙門天”へと換えられていったのである。

 二上山養老寺の金光院(真言宗)に蔵する「二上山大権現・本地垂迹曼荼羅」(仮称)を書写すれば、以下の通りである。 (『高臺閣記』p.226より)

北方御前山王廿一社

釈迦如来・大宮大権現 弁財天・岩滝大明神
薬師如来・二宮大権現 毘沙門天・悪王子大権現
阿弥陀如来・聖真子大権現 金大日如来・大宮雷殿宮(ママ)
千手観音・八王子大権現 虚空菩薩・下八王子大権現(ママ)
十一面観世音・客人大明神 文殊菩薩・王子大神宮
地蔵菩薩・十禅大明神(ママ) 不動明王・早尾大明神
普賢菩薩・三宮大権現 多聞天・大行事権現
胎大日如来・二宮雷殿宮(ママ) 如意輪観音・聖女大明神
摩利支天・山米大明神(ママ) 吉祥天王・刹行子権現(ママ)
龍樹菩薩・小十禅竜王(ママ) 大威徳明王・牛御子大明神
正観世音・気比大明神  

   西方 釈迦如来・諏訪大明神        薬師如来 正観世音 

中之御前社 毘沙門天・悪王子大権現   南方 釈迦如来・正一位国主二上山大権現

   東方 十一面観世音・院内大権現      十一面観世音 不動明王

人皇四十四代元正天皇

山門 金剛力士

当山開基 行基菩薩

 二上山養老寺(高岡)・藤居山富山寺(富山。→今いわゆる‘富山の山王さん’になっている)・朝日山上日寺(氷見)など、越中(富山県)では何故か、共々に真言宗の寺院が、天台宗系である筈の“山王”(日吉社)を鎮守神として擁していたというのは、どこか不思議である。


 ところで、二上地区において伝承されて来た「悪王子」の伝説には、実は、やゝ趣の異なる‘二種類’のものがあった。

 『高岡の伝承』(高岡市児童文化協会・編 昭和54年)p.7〜9によれば次の通りである。

※その一;
    二上の神(悪王子)の正体は「大蛇」で、僧の「行基」が封じた。
        …『我ヶ郷土史』二上贇雄;森陽子さんの報告(二上小学校)

※その二;
    二上の神(悪王子)の正体は「大蜘蛛」で、「俵藤太」が封じた。
        …野口昭子さんの報告(二上小学校)

 本当は、この二者(1、大蛇vs行基。2、大蜘蛛vs俵藤太)こそが“正しい言い伝え”なのであり、先に紹介した‘お話’は、私が好いとこ採りで作り上げた劇画風の‘新伝説’(‘新民謡’というのもあるので、といった‘乗り’…)だったのである。が、流石にこれはやり過ぎと思われ、反省とお詫びをしないでは済まされなくなってしまった。

 琵琶湖の龍神の味方をして、三上山の百足を退治したという俵藤太が、龍神とは親戚でもある様な「大蛇」を討つ筈は、無い。藤太が龍神から貰ったという釣鐘が「弁慶の引き摺り鐘」として三井寺(園城寺)に伝来するから、これはきっと、天台宗系の伝説であろう。

 問題は、「大蜘蛛」の方である。悪王子の伝説に、何故に唐突にも蜘蛛(くも)が登場するのか?そのことは、昭和五十四年に『高岡の伝承』を発刊して以来、今日に至るまでの、解けない謎であり続けた。で、私としては、より‘ドラマチック’に悪王子を語るために、「俵藤太と大蛇」の死闘という筋立てにして、勝手に盛り上がってしまっていた訳であった。


 が、思いがけない処から「蜘蛛」が出て来た、のである。

 京都は高辻の北,東洞院の西(現・京都市下京区大政所町)に住む秦助正の邸宅に「悪王子神」が夢の中で示現し給うたのは、天延二年(974)も五月下旬のことであった、という。

大政所(京都市下京区大政所町)

 翌日の朝に、後園の界塚(裏庭の、境界の塚?)を見てみると、   

  自其塚蜘蛛糸曳至祇園社
   (その塚より蜘蛛の糸曳きて、祇園社に至る)

のを知った。この奇瑞を助正が朝奏に及んで方四町の地を得、のちに「大政所」と称された、と、『京都坊目誌』下京乾16 (新修京都叢書第十六巻)p.249 には掲載されている。(出典は、『祇園会記録巻一 御旅所社家ノ記』)

 悪王子神が示現し、祇園社(八坂神社)にいたるまで蜘蛛の糸を曳いていたので、祇園神から遣わされた悪王子のお告げだと知ることが出来た、のだと言う。

 俗にも、朝に見る蜘蛛は、縁起が善いと言うではないか!(「蜘蛛の俗信と説話」常光徹、など参照)…但し、夜に見たならば縁起が悪い、とも言うが。

 ともあれ、伊勢は鶏、出雲は蛇、八幡は鳩、熊野は烏、稲荷は狐、日吉は猿、…、更には毘沙門天は百足虫、であるように、我が「悪王子」の場合は「蜘蛛」こそが、この神の「お使い」であったものらしい。(因みに、まだ確かめてはいないのだが、祇園牛頭天王のお使いは、犬であったと思われる。で、祇園社に属する「犬神人(じにん)」が居たのだろう。)

 また、『京都坊目誌』の同じページには、こんな記事もある。

〇大善院ノ址 大政所町東側の地にして。元祇園旅所の内也。旅所移転後。神明宮あり。別当を大善院と号し。醍醐三宝院に属する修験者とす。境内に蜘蛛塚と呼へる荒墳あり。(蜘蛛塚京町鑑に出つ)維新後廃寺と為り。塚地も夷けられ。…

そこで、『京町鑑』(新修京都叢書第十巻) p.380 の、「京町鑑縦町」を見ると、

〇仏光寺下ル ▲大政所町
慶長年中太閤秀吉公の御母堂大政所の第宅此町のありし故号とす東がは大善院と云本山派の山伏の住居門がまへの家有今は宗外と成たるよし此寺に蜘(くも)塚(づか)とて有むかし此所に土蜘住て夭(よう)怪(くわい)有しゆへ退治して地に埋(うづみ)しとぞ

とあった。

 「土蜘蛛」との記載は気にかかるところだが、源頼光を襲った話(→北野天満宮の蜘蛛塚)に影響されたものか。或いは『古事記』や『日本書紀』にその征討が語られ、神話時代において朝廷に「まつろわなかった」とされる人たちの伝承の流れを汲むものなのだろうか。奈良時代の肥前・豊後・常陸の『風土記』や、肥後・日向・摂津・越後の『風土記逸文』にも、それぞれ、「土蜘蛛」は登場している…。


 人を取って喰ったという大政所町の「蜘蛛塚」の由来と、悪王子神のルーツはそれぞれ未だ不明ながらも、いずれにせよ両者が、この地で結び付いたのは確実である。これでようやっと、「俵藤太が大蜘蛛である悪王子を退治した」という話に、合点、納得が(なっとこ)いった。

 また、二上山への「悪王子伝説(信仰)」の流入も、山王廿一社の中の(その他大勢のうちの)一社としての「(日吉社系)滋賀県ルート」だけではなく、蜘蛛塚や祇園祭と密着した形態での「(祇園社系)京都府ルート」をも包含した二重構造であった、と考えねばならなくなった。即ち、京都府ルートの流入があったからこそ、悪王子社(前の御前)は、邪まなる二上神といった、当地での‘伝説の主人公’の座を得ることが出来たに違いないのである。


参考資料

※1、二上祭礼「築山行事」
※2、高岡市荻布天満社の「俎板橋」
3、「本尊十一面観世音略縁起」…本覚山宝泉寺 『中田町誌』 p.935より


「高岡の伝承」採集資料集』(高岡市児童文化協会・編昭和54年)p.247〜248
(昭和52年11月30日 高岡市下麻生 宝泉寺林尋禅氏)

 抑も当壇上に安置し奉る本尊十一面観世音菩薩の御損像は、御丈け一尺八寸にして、恭しくも弘法大師の御作なり。

 今、恭しく其の由来を尋ね奉るに、人皇五十三代淳和天皇の御宇天長年(天)中、大師北陸巡錫の砌、当村宮池市左衛門という豪農あり、外には三道を守り、内に神仏を皈依隨(?)類応同して済度したまふ。則ち観世音菩薩なり。故に御誓願に曰く、若し百千万億の衆生あって諸の苦悩を受けんに是の観世音菩薩を聞いて一心に皈依すること少なからず。

 幸い大師の御巡教を御衣に縋りて曰く、当国は神代より人身御供として可憐の乙女貴重の生命を失うもの幾千万、ねがわくば上人、斯る悲哀の死を遂げたる群霊菩提のため有縁の仏像を刻みたまへと。大師曰く善哉善哉。汝の言それ因位に於いて千億の佛に侍リ、大清浄の願を発し、天道四生に御名を称えば観世音菩薩時に□□の音声を観じて解脱することを得しめんと一刀三礼至急に刻み給ひし尊像なり。時に市左衛門は歓喜の涙に咽(?)び直ちに自家の庭中に一の□宇を建立し宝泉寺と名づけ、あまつさえ、寺領三十石を寄付し余念なく群霊菩提を祈りしと言ふ。然るに寛保二年現在地に移転し、爾来、幾多の変遷あるも享保年中、中興開山海月阿闍梨大いに寺門を経営して法燈を今日に伝来せり。斯る尊き尊像なれば、千有余年の間御利益を蒙りし者枚挙に遑あらず。今幸いに三十三年の期に際し、開扉供養を営みたれば一たび参詣善男善女現世には必ず諸願を成就し、未来は永く極楽浄土に往生すること疑なきものなり。仍って只今参詣の諸人掌を合せ至急に拝礼を遂げらるべきもの也。