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堀田くに〜おくにさんといっしょ〜
 

 

 

ときは大正6年。この年を境に伏木は未曾有の転換期を迎えようとしていた。
大正3年(1914年)に始まる第一次世界大戦による輸入途絶を契機に、日本各地に近代工場が続出した。富山県においてその最有力地と見込まれた伏木港にも続々と化学工業、機械工業などの工場が建設された。
伏木の港は富山県下初の重工業地帯へとその姿を変えたのである。
農業を柱としていた富山県はこれを機に重工業に邁進する。
相次ぐ工場の進出に加え伏木港改築工事は膨大な労働力の需要を生み出した。
黒煙が天高くたちのぼる煙突を林立させ、日本海沿岸諸港の先陣を切って臨港工業地帯となった伏木は、必然的に外部からの多大な人口流入という状況に直面する。
第一次世界大戦の終結(大正7年)とともに襲ってきた不景気の波に追い立てられて、伏木の港には流れてくる者達が後を絶たなかった。全国各地、遠くは北海道、鹿児島から明日をも知れぬ窮乏者が伏木へと職を求めて来た。

堀田くに(写真提供/伏木保育園)
堀田くに
(写真提供/伏木保育園)


「伏木へ行こう。伏木へ行けば何とかなる」
救済の呪文のようにそう唱え、多くの人間が伏木へなだれ込んだのである。
不況のさなか、働き手は男だけではなかった。子供を抱えた女たちは、低賃金で「浜稼ぎ」と呼ばれる港での炭運びに従事した。貧しさの中で得るこの収入は家計の大きな助けであった。家族を生かすため、数百人の女性たちが籠を背負って行列を作り、石炭を運んだのである。
しかし皮肉にもそのしわよせが、幼いこどもたちに押し寄せた。
港周辺の世帯の乳幼児の死亡率は非常に高く、十分な世話を受けられないことから身体に障害を負った子も多かった。仕事で忙しい母親に面倒を見てもらえない赤子たちの泣き声が、積まれた石炭の間から止む日はなかった。
そんな中、悲惨な境遇の子どもたちを救うために一人の女性が立ち上がる。
その人物こそ今回の主人公、堀田くにである。

 

 

高岡ある美(以下「ある美」):

と・い・う・わ・け・で、みなさんこんにちは〜☆ 
またまたやってきましたよ、高岡の偉人突撃インタビュー!
インタビュアーはわたくし!毎度おなじみ高岡ある美で〜す!
今回は富山県で初の託児所設立に尽力された保育事業の先駆者、我がまち高岡の偉人である堀田くにさんをゲストとしてお招きしています。

インタビューを始める前に、私から堀田くにさんのプロフィールを簡単に説明させていただきますね☆

くにさんは、明治23年(1890年)伏木の回船問屋堀田家の五女として誕生、石川県立第一高等女学校を卒業後、看護婦として病院に勤務。日露戦争で傷ついた兵士達の看護に尽力されました。
その後、伏木へ戻り結婚、夫とふたり回船問屋を切り盛りされました。
芥川賞作家として有名な三男の善衛さんを生んだ年に第一次世界大戦が終結(大正7年)。深刻な不況と伏木の工業地帯化のあおりを受け、伏木の多くの回船問屋が没落の憂き目にあいました。くにさんの回船問屋「鶴屋」もその例外ではありませんでした。
そのような困難の中で開始した保育事業。その詳細はこれから本人に直接うかがうことにしましょう!
それではくにさん本人へのインタビューにうつりますよ〜!


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