| 高岡ある美(以下「ある美」): |
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みなさん、こんにちは!高岡ある美です!!
またまた、やってきました、ある美の高岡の有名人に突撃インタビューの時間で〜す!
今回は、高岡が誇る、気骨ある政治家、島田孝之先生をゲストにお迎えし、生い立ちから、様々な困難を乗り越えて成し遂げた、数々の偉業についてお聞きしたいと思います!
では、島田孝之先生、よろしくお願いしま〜す! |
| 島田孝之(以下「島田」): |
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はい、こちらこそ、よろしくお願いいたします。 しかしながら、自分のような者がこのような場に呼ばれて、なんともかたじけない。
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| ある美: |
島田先生〜、そんなに堅くならずに〜。このインタビューでは、先生の知られざる素顔に迫ろうというのが目的ですので、もっとリラックスなさってくださいね。
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| 島田: |
いやいや、何事にも真面目に取り組むのが、私の信念ですから。どんな質問にもしっかりとお応えしたいのです。 |
| ある美: |
(さすが、清廉潔白な方だわ・・・信念を貫く人って、素敵☆・・・はっ!ぼーっとしてる場合じゃないわ!仕事仕事(汗)!!)
えーっと、では島田先生の生い立ちから、お話をうかがっていきましょうか。先生は、嘉永3年(1850年)に、現在の高岡市島新にお生まれになり、幼少時から大変勉学に励まれていたそうですね? |
| 島田: |
そうですね、少年時は河合平三先生(注)に漢学を学び、その後は野上文山先生の待賢室(注)で洋学を学びました。特に英語・算術・地理などが好きでした。
しかし、もっと興味をそそられたのは、新しい政治や経済の領域です。これらをさらに、学ぶため、金沢の明治義塾へ行き、また明治6年(1873年)には、東京へも行きまして、日本の近代化に役立つ学問をむさぼるように学んだものです。 |
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(注)河合平三(1835〜1878)
中田地区(下山田)で、農業の傍ら土蔵の2階で漢学塾を開いていました。
(注)待賢室
高岡で野上文山が開いた塾で、洋学を教えていました。
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| ある美: |
なるほど〜、幼いころより勉強熱心だったのですね。よそ見もせずに、先生の話をしっかりと聞いている姿が、目に浮かぶようです。
そんな島田先生のことを、周りの方々は「島田の子は将来どれほど立派な人間になるか、先が楽しみだ」と褒め称えていたそうですね〜。 |
| 島田: |
いえいえ、それは大げさです。私に限らず、当時は新文化を吸収しようという青年たちがいっぱいいましたよ。 |
| ある美:
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まあ、そんなに謙遜なさらなくても!
島田先生は、自分が学ぶだけではなく、それを世の中のために役立てたいと考えられたそうですね。そのため、東京から戻られた島田先生は、中田小学校の先生となられ、その後は新川県学区取締など、学事を取りまとめる立場になられたと。
とっても素晴らしい精神ですわ☆ |
| 島田: |
いや、そんな褒められることではないですよ。
ただ、いろいろと学問の仕事をさせていただいていたときに、当時の県令(今でいう県知事)であった山田秀典氏に、目を留めていただいて。明治9年(1876年)、山田県令が青森へと転任の際、私を青森県野辺地警察署長に任命してくださいました。
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| ある美: |
まあ、ずいぶん若くして、署長になられたんですね!
山田県令さんも、島田先生の才能や手腕を認めておられたんですね〜。 |
| 島田: |
いえ、それほどでもありません。
そのころ、奥羽地方にコレラが流行した際、私は県令の命を待たずして、即刻検疫を実施しました。お上に従うのが当たり前の時代だったのですが、私は自分の考え・信念で行動してしまう性格でして・・・。 |
| ある美:
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しかし、そのことも「悪疫撲滅に臨機応変に処置を行った」と、山田県令はお褒めになり、少しもとがめることがなかったそうじゃないですか。
島田先生のその信念と行動力を高く評価されていたということですよ! |
| 島田: |
いやいや。ただ、山田県令には大変お世話になりましたし、学ぶところも大きかったです。
しかし、その数年後、世の中は大きく変革の時期を迎えていました。維新の改革が進み、地方自治に人民参政の機会がめぐってきたのです。
私は地元、富山の政治について深く考えるようになり、そのことを山田県令に正直に伝え、明治14年(1881年)に郷里へと戻ることにしたのです。 |
| ある美:
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なるほど。役人として素晴らしい働きをなさっていた島田先生ですが、こうして、政治家としての道を進むこととなったのですね。
それでは、ここで、いったん休憩を挟みまして、次は本格的に島田孝之先生の政治活動について、お話をうかがっていくことにしましょう!
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