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服部嘉十郎〜愛は公園を救う〜
 

 

 

ある美:

えー、休憩時間はここまでとさせて頂き、本日の講演会も後半に入ります。
皆様、静粛に願います。

それでは嘉十郎先生、お願いします。
嘉十郎:

はい。それでは次に、私が思い描いた公園の姿について述べますね。
高岡の人々の憩い場として城址は如何にあるべきか。
私は、当時の新川県令(注)の山田さんに提出した請願書にこの理想の姿を盛り込みました。請願書を出したのは明治7年(1874年)のことでした。

(注) 当時高岡は新川県に入っていた。県令は今の県知事に相当する。

私は高岡城址の民間払下げが取り消され、公園指定を受けた暁には、皆の目も心も悦ばせるような花木芳草を植え、橋を架け東屋を造り、また博物館、美術館、図書館、公会堂、体育館、児童遊園地、石碑等を建造する予定であると訴えました。
高岡の人々に愛されてきた城址を、今後も永く万人が利用できる存在として残ることを許可して欲しいと、あらん限りの情熱を持って説いたのです。

城址を落札したにも拘らず、私の思いに共鳴してくれた方々の存在も大きな支えになりました。
彼らは、公園を利用して営業に乗り出し、その利潤を公園の経費に充当すると言ってくれたのです。
私は必死でした。
反対や妨害運動の前に屈しそうになりながらも、高岡城址がどれほど人々に愛されてきたかを、壊してしまえば二度と戻らない存在であるのだということを全力を尽くして訴えました。

そして明治8年(1875年)、ありがたいことに新川県令の山田さんは払い下げを取り消し、高岡城址は正式に公園の指定を受けることができました。
明治22年(1889年)に、高岡地区は高岡市となり、同時に公園は高岡市の管理するところとなったのです。
高岡古城公園が永く高岡市民の誇るべき地となった瞬間でした。
(感動にうち震え、目頭を押さえる嘉十郎・・・・・。)


晴れて公園指定となったあと、城址がどのようになったかは皆さんが御存知の通りです。
残念ながら私は見ることはできませんでしたが、請願書に盛り込んだ図書館、美術館、児童公園、市民会館、動物園が建造され、よりたくさんの人が身近に利用できる存在になったのです。


高岡古城公園は多くの文人、批評家が野趣を称える天下の名園でもあります。すばらしい文化的建造物だけではありませんよ。
高岡古城公園は多くの文人、批評家が野趣を称える天下の名園でもあります。
満場の皆さんは、高岡城址が近世初期以降の人工の所産であることを御存知ですね。
しかし、廃城後長らく野放しであり、もとから自然の地形を利用していた高岡城址は、鬱そうとした老樹があふれんばかりの自然の趣を与える地でもありました。

満場の皆さんは高岡古城公園を愛してくださる方々であると私は考えます。
どうでしょうか。
日本全国に公園は数多くあれど、街中においてこれほど自然の喜びに溢れた公園があるでしょうか。
約460種類の植物が季節の彩りを添え、四季折々に様々な顔を見せます。
与謝野晶子が称え、俳句にも詠んだクロマツはけものたちのすみかとして堂々とそびえ立ち、これら老樹の周りをイタチやネズミが駆け巡ります。
高山右近が造った水濠のほとりではゴイサギやマガモが羽を休め、水中は多くの水生生物の生息地となりました。
園内の至るところで、姿や声の美しい野鳥たちを見ることができます。
濠に生えるハスやシイの木の実を、子供たちが笑いながら拾う姿が見られました。

自然の風趣を持ちつつ、人々が日常に利用できる場。人々に愛される場。これこそ私が思い描いた高岡古城公園でした。自然の風趣を持ちつつ、人々が日常に利用できる場。人々に愛される場。
これこそ私が思い描いた高岡古城公園でした。

公園指定を受けた後、高岡古城公園は徐々に形成され、姿を変えてきました。
今後も、月日の流れの中で幾たびもその姿を変えていくことでしょうね。
私は、ただ、高岡古城公園が今後も市民が自信を持って誇るべき公園であることを願うのみであります。

えー、少々熱が入り長くなりましたね。お恥ずかしい・・・///(照れる嘉十郎)。
それでは私の本日の講演を終わらせて頂きます。
紳士淑女の皆さん、ご清聴、誠にありがとうございました。

お客様: パチパチパチパチパチパチ(拍手!!)
アンコール!服部!!アンコール!嘉十郎!!アンコール・・・
   

アンコールへ続く…

 

 


 


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