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高山右近〜人生は城々だ〜
 

 

 

高山右近像
高山右近像
(高岡古城公園内)

あなたは、かつて高岡に城があったことを知っていますか?その城がいつ頃、誰の命令で誰によって設計されたかを知っていますか?
その城は高岡城と呼ばれていました。
高岡城は1609年(慶長14年)、前田利長の命令により現在の古城公園の地に築かれました。その城を設計した人物の名こそ高山右近!
まずは、高山右近がどのような人物であったかを紹介したいと思います。

高山右近は1552年(天文21年)、摂津国(現在の大阪府)に生まれました。1564年(永禄7年)、父・友照がイエズス会宣教師・ロレンソの話に共感してキリスト教の洗礼を受けると、右近もその影響を受けキリシタン(注1)となりました。
1568年(永禄11年)、織田信長が将軍・足利義昭とともに京都に攻め上ってくると、右近は父とともに信長に仕えました。

その後は各地の合戦で活躍し、信長からの信頼を得て高槻城主(注2)となりました。その一方でキリスト教への信仰も深め、教会の建設や宣教師の保護に努めたのです。
1582年(天正10年)、本能寺の変により織田信長が明智光秀に倒されると、右近は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に仕えて明智光秀や柴田勝家の討伐に力を尽くしました。しかし秀吉が1587年(天正15年)バテレン追放令(注3)を発布すると、熱心なキリシタンであった右近は、これに真っ向から反発しました。怒った秀吉はついに右近の領地を没収し、彼を追放したのです。
右近はしばらく小豆島や肥後国(現在の熊本県)に逃れていましたが、かつて同じ信長の家臣であり、キリスト教にも理解があった前田利家に招かれて金沢に暮らすようになりました。特に築城の分野で優れた能力を持っていた右近は、利家・利長親子の信任を得て金沢城修築に大きな功績を残しました。そして利長は、高岡城の設計を高山右近に任せたのです。

(注1) キリスト教徒のこと
(注2) 高槻城は現在の大阪府高槻市のあたりにありました。
(注3) キリスト教宣教師を国外追放する命令。当時の日本は、キリスト教宣教師をバテレンと呼んだ。

 

高岡城誕生秘話に迫る!
高岡ある美(以下「ある美」):
みなさん、初めまして。たかおか偉人伝『高人記』の専属レポーターの「高岡 ある美」です。今日は、あの高岡城を設計した高山右近さんをゲストに迎え、今は無き高岡城の真相に迫りたいと思います。

では、高山右近さん、今日は高岡城について、いろいろとお聞かせください!
高山右近(以下「右近」):
  はい、どうぞ。何でも聞いてくださいね。

ある美:

では、まずはなぜ高岡にお城を造ることになったのか。その経緯を教えてください。
右近: そうですね。その前に簡単に私のことをお話させてください。私は、前田利家公に招かれ、金沢におりました。利家公亡き後は、ご子息の利長公に仕えておりました。その利長公は、1605年(慶長10年)に隠居され、富山城に移られたのですが、1609年(慶長14年)、富山は大火に見舞われ、城も町も一夜にして焼け野原となったのです。利長公は魚津城に移ったのですが、富山城を再建するか、新たな城を建てるか検討なさっておりました。その検討の結果、関野――今の高岡が新天地となったのです。

ある美:

なるほど。富山の火事が原因だったのですね。しかし、高岡のどのような点が城を建てるのによかったのでしょうか?
右近: 高岡は地形的にとても恵まれているのですよ。小矢部・千保・庄川の三つの川が集まっており、伏木港も近い。さらに北陸街道にも面しており、二上山など山々にも囲まれている。天然の堅固な防御地といえる、城地として絶好の地だったのです。
ある美: はぁ〜、高岡ってそんなに素晴らしいところだったのですね。改めて、高岡のよさを実感しました。


ところで、右近さんは、高槻城や金沢城の設計も手がけられ、築城の名手と呼ばれてますよね。
右近: いやいや、そんな名手など・・・そんなことはありませんよ(照)
ある美: またまた〜。謙虚なんだから〜、右近さんは!やはり、利長公もその腕を見込んで、高岡城の設計を任されたのでしょうね〜。
右近: ・・・まあ、腕はともかく、キリシタンである私にも理解を示してくださる利長公が設計を任せてくださったのですから、精一杯がんばりましたよ。あ、そうそう、当時は設計のことを『縄張り』と呼んでいたのですよ。
ある美: へぇー、今の『縄張り』とは意味がだいぶ違いますね〜。勉強になります。
 
古城公園内のお堀では、本格的に高岡城の話に入りましょう。この高岡城、ずいぶん縦長な城地となってますねぇ。しかも、東側は二重のお濠で囲まれていますが、本丸の西側は一重だけ・・・。これは、危険なのでは?なぜ、このような形に設計されたんでしょうか?
右近: 確かに、本丸の南側には二の丸、東側には三の丸と堅固な守りを敷いていますが、西側は何もないように思われますよね。しかし、実は西側は、沼地となっており、はまり込んだが最後、進退の自由を失ってしまうような難所だったのです。ですから、西側に防備を要することはなかったのです。
ある美: 素晴らしい!自然の地形を生かしながら、防御力に優れたお城を造られたのですね!!さすが右近さま!!


ところで、この高岡城のようなお城って、珍しいそうですね。
右近: そうですね。先ほど挙げましたが、私が設計した高槻城や金沢城は、もともとあったお城の輪郭に手を加えたものなのです。しかし、この高岡城に関しては、私が一から設計図を描き、工事を指揮したのです。
ある美: ということは、高岡城は、右近さんの完全なオリジナルってことですね!!そんな貴重な高岡城――今、その雄姿を見られないのが本当に残念です・・・。
 
さて、そんな右近さんオリジナルの高岡城ですが、完成までなんとわずか二百日余りだったとか?
右近: ええ、利長公が急がれまして・・・。利長公は勝気で、思い立ったらすぐ行動という素晴らしい方だったのですが、少々気短かで・・・。事実、高岡城は突貫工事でしたね。石垣が崩れるなど、問題もいろいろとあり・・・。こんな短期間で城を造るなど、大変な苦労でしたよ(苦笑)
前田利長(以下「利長」):
うーこーんー・・・。お主、そのように思っていたのか。
右近: えぇっ!と、利長さま!!いや、その・・・えー、うっかりと口が滑り・・・す、すみませぬ(汗)
利長: はっはっ。冗談じゃ。気にするな。
ある美: おっと、紹介が遅れました。特別ゲストの前田利長さまです!さっそくですが、利長さまはなぜそれほどまでに築城を急がせたのですか?
利長: うむ。無理は重々承知だったのだが、少しでも早く高岡に移りたかったのだ。富山の火災で、ずいぶん懲りてなぁ。おぉ、そうだ。関野の地を『高岡』と名づけたのは、この私なのだ。1609年(慶長14年)、城に移るときにつけたのだ。
ある美: まあ!では、私たちが今親しんでいる、この『高岡』という名は、利長さまあってこそだったのですね!
利長: ところで、右近。高岡城についてだが・・・。
右近: ははぁ、それはですね・・・。
  (高岡城についての話が盛り上がる二人)
ある美: えっと・・・お二人のお話、盛り上がっているようですね・・・。では、しばしご歓談いただくとして、続きましては、高岡城の真価、そして右近さんと高岡との関わりについて、お話を伺いたいと思いまーす!!

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