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チョビっとスポットライトたかおかだいぶつPartU
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はい、どうもどうも、て、なわけでPartTもないのにいきなり始まる万歳大仏!
みなさぁ〜ん、ご機嫌いかがですかぁ〜?
高岡の「だいぶっつぁん」はいつもあなた方を見守っていますよぉ〜。
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とか言いつつ、今回は「中野双山」のことについて想い耽ってみようと思うわけだ。
「中野双山」と聞いてすぐにピンと来るあなた!
高岡検定(まだない?)の高得点合格者か、かなりの大仏マニアもしくは貴重な万歳大仏フリーク(高岡大仏入門編参照)ですね。
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そう、中野双山こそ、われらが高岡大仏の「原型師」なのです!
「原型師」というのは、原型を制作する人物のことで、高岡大仏の生みの親というわけ。
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しかし、この方に関しての資料がなかなかない。
インターネットで検索してもたったの23件しかヒットしないわけで、不思議なくらい。 |
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と、言うことで、そんな中でも比較的詳しいチューリップテレビが発行している『越中人譚 第三十号:造形 高岡大仏に精魂を傾けた彫刻家中野双山(著者/藤井素彦)』を教科書に、双山をなぞってみたい。 |
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中野双山は、明治14年射水郡高岡町定塚町生まれ。
本名は「又吉郎」。
まっ、双山が本名のはずないか・・・。
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明治14年定塚町生まれなら、小さい頃の遊び場は、明治8年に初めて公園に指定された「古城公園」だったかもしれない。また、毎日のように、明治33年の大火で焼失する前の大仏さんを拝んでいただろうか。
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双山はその後、富山県工芸学校(現高岡工芸高等学校)鋳銅科を卒業し、東京美術学校(現東京芸術大学美術学部)に進んでいる。
東京美術学校といえば、日本近代芸術の黎明期を担う先駆者達を数多く輩出した名門中の名門。はっきりいってエリート。
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しかし、わずか3年ほどで双山は帰郷している。
その理由はよくわからないが、筆者が「やむなき帰郷」と書いていることから、現代の我々には想像しがたいしがらみみたいなものがあったのかもしれない。
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しかし、ここで腐らないところか、双山のすばらしいところ。
当時、高岡銅器は、パリ万国博覧会や内国勧業博覧会でその名声を高め、欧米にバンバン輸出していたらしいが、そんな中、自分が勉強してきたことを生かせる余地を探し続けたのだろう。 |
| そして遂に、「高岡大仏」再建のために、「原型師」としてその持てる全てを捧げる機会がやってくる。 |
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高岡大仏入門編で、双山が高岡大仏の原型技師を依頼されたのが弱冠27歳だったことを驚きをもって書いたが、よくよく考えるとこの時代の日本男児はヤワじゃない。15、6歳になれば立山にひとりで登りにいくという話を聞いたこともあるくらいだ。 |
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そう考えると、27歳というのはもっとも脂の乗った時期だったのかもしれない。しかも、中退したとはいえ東京美術学校に学んだ者など、そうはいなかったであろう。 |
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ともあれ高岡大仏再建の第一歩が記されたのだが、ここからが長いのなんの。
度重なる財政難でなんども中断され、ようやく開眼式を迎えたのはなんと昭和8年!
依頼を受けてから四半世紀たってます。
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原型師としての仕事は大正10年あたりで完結しているようだが、それにしても数年どころではない。これほどの情熱。苦心。
大任を終えた境地はどのようなものであっただろうか・・・。
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「後には磊落で知られた双山」だそうだが、ただ年を重ねたがための「度量の広さ」だけでなく、この高岡大仏再建に携わったことが人間形成に多大な影響を与えたのであろう。
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そうそう、この高岡大仏。
その面相のモデルは柴売りの老人であったということに、著者は触れている。これは昭和32年の富山新聞にあった話だというのだが、なによりも驚きなのは、「柴売り」というものがその頃にはまだあったのかということ。「おじいさんは山に柴刈りに・・・」の柴なんだろうなぁ。
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最後に、「いい仕事がしたい」と強く思わせる双山の言葉を引用して、明日からは一生懸命生きよっと。
『近代に稀なる大作物たる高岡大仏の原型製作の依頼を受け候は、現代に生を享けたる芸術家の一人として無上の光栄と信じ、(中略)原型の完成まで凡そ拾五年余の歳月を費したる苦辛の結晶に御座候 高岡大佛師 中野双山』
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